■エジプトのビールの起源
エジプトのビールは起源が古く「死者の書」と呼ばれた死後の世界の案内書のなかにも、ビールのことがふれられています。
とりわけ「アニとヌーの死者の書」には、「私は白い大麦でつくったパンと、赤い穀粒でつくったビールで暮らしたい」「霊魂達をよろこばせるために・・・・菓子とビールの捧げものをする」と書かれており、パンとビールが当時の主要な食糧と飲料だったことがうかがえます。
「アニとヌーの死者の書」によれば「アニ」は天地を創造した八人のエジプトの神々の一人であり、その妻「ヌー」とともに醸造と水を司っていたと えがかれています。
「死者の書」は古王朝から第十八王朝の時代にわたって書かれたことがわかっていますが、「アニとヌーの死者の書」がいつ頃書かれたのかは、さだかではありません。
このようにエジプトではビールは死者への供えものの一つで、第四王朝以後には しばしば形容句として「一千のパン、一千のビール」という文章が碑文に刻まれてい
ます。また、エジプトの象形文字はメソポタミアのシュメール文化の影響をうけているともいわれ、エジプト文字が成立したのは、紀元前3000年頃らしいといわれています。
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■ゲルマンのビールの起源
ギリシャ人もローマ人もほとんどビールを飲みませんでしたが、それぞれの歴史の中に ギリシャ人はエジプトのビールの記録を残し、ローマ人は北ヨーロッパのビール風俗を伝えています。
ウェルギリウス(紀元前一世紀のローマ最大の詩人)が記した『農耕詩』のなかには、北方の蛮族(ギリシャ人以外の異国人、のちローマ人以外の異邦人のこと。)がビールを飲んでいたことが ドナウ川の流域地方のきびしい冬の描写とともに次のようにえがかれています。
・・・その地方では冬が長く、大地は見渡す限り3メートルもの雪に埋もれ、水の入った真鍮の容器は寒さの余りひび割れ、着る物はそれを着ようとしている間に凍ってしまう。
また その地方ではきびしい寒気のため、液状の葡萄酒も凍ってしまうので、斧で割らねばならなかった。
そんな時、その地方の住民は地中に深く掘った洞穴の中で、ニレの丸太を燃やして夜を過ごし、上機嫌で葡萄酒の代わりにビールや、酸っぱいナナカマドの実でつくった葡萄酒に似たものを飲むことを、娯楽にしていた。・・・
葡萄酒に限らず、酒が凍結するかどうかについては異説がありますが、17世紀にグリーンランドで冬を過ごしたデンマーク人の報告によると、その地方では凍った葡萄酒を斧で割って、火の上でとかして飲んだとなっていますから、ウェルギリウスの書いていることは、詩人的な誇張ばかりではないといえそうです。
ウェルギリウスはビールを「フェルメント」と呼んでいますが、これは今日の発酵を指す言葉で、「穀物を発酵させた物」という意味です。
「酸っぱいナナカマド」というのは今日のシードル(リンゴ種)のたぐいだったとみられています。
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■ギリシャのビールの起源
古代のクレタ島(エーゲ海、古代文明が栄えたことで知られている)でも、ビールが飲まれていたらしく、ビールを保存するのに適した呑み口の壷が発掘され、ある種のビールがエジプトから輸入されていたとみられています。
一説によると、ギリシャ人もヘブライ人とおなじく、紀元前700年頃にエジプト人からビールの作り方を学んでいたともいわれていますが、真偽のほどは定かではありません。
ギリシャの文献にビールのことが現れてくるのは、紀元前6〜5世紀頃ヘカタイオスやヘロドトスのような歴史家・旅行家の著した文献からで、エジプトのビールについて伝えています。また、紀元前4世紀になると、悲劇詩人のソフォクレスが、「ギリシャ本土のビールを、我々は飲みたいとは思わない」と書いていますから、その頃ギリシャでつくられたビールは あまり評判がよくなかったようです。
また、ギリシャでは ビールは異国人の飲み物とされ、一般的には ほとんど飲まれていませんでした。理由は ギリシャは地味が悪くて麦類がよくできなかったからであり、それに反して、ブドウやオリーブがよく成長したので、酒といえばもっぱら葡萄酒だったわけです。
また葡萄酒は安価で(高級品を除いて)、庶民でも毎日たらふく飲むことができました。その為、他の国では収穫といえば一般に穀物の収穫をさしますが、ギリシャの場合はブドウを意味し、ブドウの収穫時期には、収穫祭が祝われました。やがてその風習はローマに伝わり、キリスト教の時代になってヨーロッパの北国ではクリスマス、南の国ではカーニバルと姿を変えていきます。
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■メソポタミアのビールの起源
メソポタミアのビールの起源は非常に古く、世界で最も古いといわれるビールの記録が残されています。
メソポタミアは今日のイラク(首都はバグダード)地方で、シュメール人とセム人(伝説ではノアの子孫といわれ、アッシリア人、バビロニア人、フェニキア人、ヘブライ人などが、末裔と言われています。)が紀元前3000年頃に高度の文明をうみだしていました。シュメール人は楔形文字を発明し、粘土を固めた書板(タブレット)にその文字を刻んだことや、12進法を使っていたことで知られていますが、紀元前3000年代の終わり頃の粘土板のなかに、薬の作り方を書いたものがあり、そのなかに、ルルという名の医者名で ビールと葡萄酒の事が書かれています。
ルルの書いた粘土板は、アメリカの調査団がニプールの廃墟で発掘し、現在ペンシルヴァニア大学の博物館に収められています。1940年に、その博物館でバビロニア室の管理をしていたレオン・ルグラン博士が、この粘土板の一部の翻訳を研究報告に発表したことがありましたが、内容がきわめて技術的、専門的なので、楔形文字の専門家だけではとうてい全てを解読することはできませんでした。
1953年の春の土曜日の朝、ルグラン博士のあとをついで粘土板の管理者となったサミュエル・ノア・クレーマー博士のもとに一人の青年が訪ねてきて、私は同じ市に住む化学者で、マーチン・レヴィですと 自己紹介をしました。、科学史で学位を取ったばかりの彼は、もしこの博物館の粘土板のなかに、科学と技術に関係したものがあったら、その整理を手伝いましょうと申し出ました。
なんどもルルの粘土板を手にとって、それの翻訳をしてみたいと思っていた、クレーマー博士は早速、青年と共同で5千年前の楔形文字の解読にとりかかりました。
しかし、内容は難解で、解読作業ははかばかしくありませんでしたが、ようやく解読できた部分をもとにして博士が想像したところによると、ルルはたいへん高名な医者で、その処方を彼の仲間や弟子達のために粘土板に記して、後世に残しておこうと思ったようでした。しかも、ルルの用いた薬は動植物と鉱物で、近代の薬物学の原料とあまり異なったものではありませんでした。
彼はそれを煎じたり、一種または数種の原料の粉末を葡萄酒で練り膏薬にしたり、液状にしたものを内服薬として患者に与えていました。内服薬は飲みやすくするためいつもビールと一緒に飲ませ、ごく簡単な薬はそれをビールに溶かして病人に与えていました。ルルの処方は、紀元前3000年代の終わりに、ビールと葡萄酒がつくられていたことを記録した文献では世界で最も古いものの一つで、しかし、それが解読されたのは第二次世界大戦の後でした。
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