世界の地ビール 『カンティヨン醸造所』
ベルギー、ブリュッセルより

ベルギーは今や言わずと知れた地ビール王国。とは言ってもベルギーの「地ビール」は、日本やアメリカのでのような「新しいトレンド」ではありません。むしろ、それはブリューゲル以来のこの地方の生活の有り様であり、市井文化そのものです。
その昔、ベルギーではどの村にも必ずとびきりビール作りのうまい農家(もちろん牧畜農家、ビール醸造は冬の農閑期のサイドビジネスだったのです)があって、横町に一軒そいつのビールを飲ませる店があったもの。これこそ「元祖、地ビール」でしょう。でもそんな一杯飲み屋風の村の寄り合い所には、現代っ子はそっぽ。 でも、最近では、ベルギーでも、アメリカやドイツから逆輸入されたトレンディな「ブルーパブ」も少しずつ登場して、古いものに新しいものが加わり、ベルギー地ビール事情はさながら再発酵を始めたグースビールのようです。 と、話がランビックビールに移ったところで、ベルギーからの地ビールの一番手は何といっても「カンティヨン醸造所」。
ベルギーに現存する100余の醸造所の中でも、「地ビール中の地ビール」のイメージにピッタリ。 創立1900年、もうじき100年を迎えるこの醸造所の、今日の年間醸造量は90キロリットル。「実際醸造もしているブリュッセルグース博物館」として、この蜘蛛の巣だらけの醸造所は、大切なブリュッセル観光の名所となっています。ランビックビールの製法等はマイケル・ジャクソンの本等で勉強していただくことにして、今回は、隠されたカンティヨン家の物語に焦点をあてて取材しました。


カンティヨン物語

初代ポール・カンティヨンが、ブリュッセルの西部アンデルレヒト地区に始めてブルワリーを設立したのは1900年のこと。その時代にはブリュッセル市内だけで100以上の醸造所があったのだそうです。第2次世界大戦後、長男マルセルと次男ロベールが後を継ぎ、今から40年前頃には年間250キロリットル以上も製造していました。現在の当主、カンティヨンの名物、ジャン・ピエール・ヴァンロワ氏は、95年の阪神大震災の日に、涙をはらはら流しながら「どうしようどうしよう」と一日中泣いて心配してくれた、人情あふれる下町のおやじさん風情。どこから見ても生粋のブルワーかと思いきや、実はマルセルのお嬢さんクロードさんのご主人なのです。なぜ、そんな彼がこのグースビールの伝統工芸を継ぐことになったのでしょう。
初代 Paul Cantillon ポールの長男 Marcel ポールの次男 Robelt 現在の当主
Jan-Pierre VanRoy

時は1960年代始め、ベルギー経済がまだ鉄鋼業で潤っていた頃、科学の先生になることを目指して師範学校に通っていた若きジャン・ピエール青年は、コートダジュールでのヴァカンスから帰ったばかりの小麦色に日焼けしたクラスメートのクロードさんにひとめ惚れ。<クロードさんは今でもとてもチャーミングでかわいい声を出す素敵なマダムです。>ジャン・ピエール20才。クロード19才の夏のことです。卒業したものの教師の職はなく、フィリップスでレコード販売の仕事をしていた67年2月1日、まじめなまじめな交際の末、2人はゴールイン。<このあたりで、息子のジョン、娘むこのパトリックがじわじわと耳をダンボにして私達の回りに近寄ってきました。> 営業車を運転してのアルデンヌ地方スパ(ミネラルウオーターのブランド「スパ」で有名。F1グランプリの行われるフランコションの隣村)への出張がハネムーン。新妻は、得意先の駐車場にとめた車の中で、ご主人の戻るを待っていたのだそうです。

その頃、カンティヨン醸造所は、他の多くの小さな醸造所と同様に、様々な問題を抱えており、特に、カンティヨン家は後継者問題で存亡の危機に直面していました。69年、薄々予感していたものの、ついに義父マルセルから「継いでくれないか」との申し出。若いながらも功績が認められて販売副部長に抜擢されいたジャン・ピエール青年は迷いました。父親がランビック産地のセナ渓谷周辺ベールセル出身であったため、小さい頃からランビックには馴れ親しんではいたものの、醸造等やったこともありません。でも、フィリップスでと同じくらいがむしゃらにやれば、絶対にこの窮状をしのぎ成功させる自信がありました。愛妻クロードさんと相談もせず、ひとりで決断。ところが、8月に出した辞表は受理されず、フィリップスを辞められないまま、10月、義父マルセルに習っての醸造修行がスタート。朝4:30から仕込みを始め、8:00にはフィリップスで営業の仕事をする二重生活は翌2月15日まで続きました。 "C'etait tres, tres, tres dur" (そりゃ、とんでもなく辛かったさ)<ここでジャン・ピエール氏の目から思わず涙が>

「後悔したこと? そりゃ何度でもあったさ」
とヴァンロワ氏。いよいよ後を継いでやり始めた70年代は、ベルギーの伝統的ビールの市場が加速度的に衰退していく真っただ中。フィリップス時代に培った、新規市場開拓とマネジメントのノウハウから、ちっぽけな伝統的醸造所が生き残る道は、『伝統的ビール文化とビジネスをうまくドッキングさせた新しいニッチ市場の開発しかない』と考えて取り組み始めました。その間、相続を巡る親族内のもめごとがあったり、自然発酵に不可欠な微生物が宿る醸造所の屋根が嵐で吹き飛ばされたり、借金は重なり、その返済は94年まで醸造所の経営に重くのしかかり苦労の連続でした。困難の度に、大手醸造所や投資家からの申し出がありましたが、それを固辞し、今日に至るまで、険しい道のりを独自で乗り切ってこられたのも、奥様とのすばらしい二人三脚の賜物と言えるようです。(ジャン・ピエール氏もクロードさんも、涙で声がつまって出ないほどでした)
長男ジョン、長女マガリーの夫パトリックの2人が、次ぎの代を引き継ぐことになっており、生きたランビック醸造博物館『カンティヨン』はしばらくは安泰。「その後は、お孫さんのシモン君に?」との問いに、「さあね、いやだと言うかもしれないし、女の子が継ぐかもしれないさ」と、ヴァンロワご夫妻はやさしいおじいちゃんとおばあちゃんの笑顔になるのでした。



97年のカンティヨンビールのできばえ
97年はフルーツビールに必要なフルーツのできが大変悪く、72年以来最悪の年とか。対前年比で、クリーク(サワーチェリーを漬け込んだもの)は30%減、ロゼ・ド・ガンブリヌス(木苺を漬け込んだもの)は50%減。ヴィネロン(グレープを使ったもの)は本当にごくわずか。これはカンティヨンばかりでなく、どのランビック醸造所でも同じ様な状況のはず。例年と変わらない価格で同じ量を問題なく供給できる醸造所があれば、つまりそこは本物の良質なフルーツを使っていない、といえそうです。 従って、大事なお得意さんにだけ、そっと分けるという状態で、拡販する余裕は全くない状態だとのことです。98年、独特のすっぱさが魅力のカンティヨン・ランビックは、大切に、大切にご賞味ください。
97/98 カンティヨン・カレンダー




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