順序としまして、資料(2)の「伊丹の歴史概説」に従って話を進めたいと思います。また肩のこらない「伊丹の歴史」をしていきたいと思います。
歴史の話をするにはどういう形がいいのかということをいつも考えるのですが、いろいろ時代を経て、また同じように政治も変わり社会も変わり文化も変わっていきます。時代の区分というのが歴史の場合よくされます。
古代だとか中世だとか近世だとかというようにいろんな分け方があり、一概に言い切れないのですけれども、政治的社会的な分野で分けていきますと、古代とか、中世とか近世とかいう形になります。
社会的には律令制の社会、これは政治的に分ける場合にも使います。封建社会の場合には前期だとか後期だとかいう分け方があります。私の場合はわかりやすいように何々時代という形で、並べております。そういうつもりでお聞きください。
強いて時代的に分けていくとすれば、「この部分は中世ですよ」とかいうことを書いていると思います。
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では伊丹の歴史ですが、歴史の紐を解いていく場合には、資料となるものはまず土地の発掘調査です。大地には歴史の跡が刻み込まれているのです。
その発掘によっていろんなことが明らかにされていくという場合と、それから昔の方の書かれたいわゆる文書(ぶんしょ)ですね。一般的に文書(もんじょ)と呼んでおりますけども、そういった古い文書(もんじょ)を、古文書(こもんじょ)といいます。そういったものを解読して、その中から「あ、そういう出来事がこのときにあったんだな」といったことが次第にわかっていき、また「こういう時代であったのだな」ということも、当然わかっていくということになります。
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そこで、一番はじめに、原始と書きまして、「伊丹海進」という言葉を書いております。
これは大阪市史にも載せられているんですが、だいたいこの辺の土地は三万年前は当然のことながら、ずいぶん陸地の方まで海でありました。 海の水が陸地の方にだんだんと侵入してきたわけですね。そのことを、「海進」とわかりやすく言うのですが、「伊丹海進」と呼ばれるのは三万年ほど前、だいたいこの近辺にはございました。
そのときの図が資料(1)の図なのです。これは昭和大阪市史の第一巻から抜いてきたものですが、ご覧のようにちょうど左の上くらいになりますか、池田がありましてその下に伊丹があります。
この辺りまで海の水が来ておりました。で、余談になりますが、現在地球上に南極・北極に氷床がありますが、その南極氷床が全部溶ければ、日本の、日本のというか世界の陸地はですね、すべて今の海面から七〇〜九〇センチまで海水が上がってくるといわれております。
そういうことになれば、たいへんなことになりますが、三万年前はそういった海進というかこの伊丹の地方まで海でした。
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そのあと「縄文海進」というものがもう一度ありました。だから海の水は引いたり、また増えたりしているのです。 最近は特にそういった大きな目立ったことはありませんが、日本列島の中でも土地がどんどん海水に浸ってきているところがございます。
海岸の方へ行かれて、たとえば尼崎の方へ行かれてもおわかりと思います。海の中に煙突が出ておりますね。あれなどは海進で水の底になってしまったわけです。
そういった海進がありまして、二度目の海進というのがだいたい一万年くらい前にありました。
そのときにどの辺まで海の水が来ていたかといいますと、だいたい今の阪急神戸線の線路が走っているあの辺が海岸であったといわれています。これはいわゆる土質の調査、つまりボーリングによりそういうことがわかってきたわけです。
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