第一章 伊丹歴史探訪へのいざない
〜伊丹の歴史概説〜
村上 敏展

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資料1  
資料2  
資料3  
資料4  
資料5  
資料6  
目次へ  
 四方の城戸を閉じ、全部閉めて、家々に火をかけて、というような文章。
それからこの数十年の間、武士や町のものが苦労してこしらえた城を放っておいて逃げるのは非常にくやしいと、そう言って天守にて腹切りぬと、いう文言があるのです。
「天守」とは何かと、天守というと天守閣か、天守閣に違いない、そこがね、天守があったと天守閣があったということになってるのです。
しかしその天守というのは天守閣ではなくて、天守(主殿=中心的となる)、いわゆるそういう建物があったのだろうというのが正しい見方と違うかと言われていますので、残念ながら天守閣があったとは言い難いです。

 それはこの落城のときに、そういう文章が、細川家のことを書いた細川両家記という書物のなかに書いてあるのです。
そういってこの二人の人は自分で腹を切って死んだと、いうことですね。
天守にて腹切りぬ、なら天守閣があったと思われることになるのですが、それはそうではないだろうというのが一般の通説です。
ただいま言いましたことの中で、四方に城戸を閉めてという言葉、ここから考えられるのは、館だけじゃなくて、かなりの範囲にわたって防御の柵のような城戸で塀みたいな、ということはもうこのころから伊丹の城というのは、ただいっかいの建物じゃなくて、町を城の周りに置いていたのですね。
そういう構えの城であっただろうと、これが後に荒木村重が有岡城に入ったときに、惣構えの城というのを完成するのですが、そのときすでに伊丹氏の手によってその小型といいますか、有岡城の方は大きさが八倍から九倍近い大きさですから、すでにその規模があったということですね。

 伊丹氏というのはその後、摂津の三守護の一人に任命されるのですが、荒木村重に攻められて城を無血開城します。
戦えば怪我人も出るし領民が非常に苦しむと、そのようなことは忍びないということで、時の城主の親興は城を明け渡すのです。明け渡して城を出ていきます。
だから荒木村重は、無血開城ですから後の城の建築はずいぶん楽だっただろうと思います。一年あまりで仕上げてしまいます。
新しく出来上がった城は、東西が〇・八キロ、南北は一・七キロの広さです。そういう惣構えの城を造りあげ完全に摂津一国を支配するわけです。
禄高を見てみましたら三十八万石の城主として荒木村重が君臨するのですが、残念ながら一五七八年信長に反抗して落城します。
その落城のときには非常に悲しい話から、また隠れた話があるのです。


 悲しい話というのは一族郎党はもちろんのこと、縁につながるものは皆、むごたらしい虐殺をされます。
その中でも特に哀れをとどめたのは、村重の妻の荒木だし、「たし」と書くのですが、当時まさに二十一歳。世界の美女の一人に数えられるというのですが、この人は実にみごとな最後であったという記録が残っております。
そのときの辞世の句で資料(2)にもありますように、「残しをく そのみどり子の心こそ おもひやられて かなしかりけり」という歌を残しているのです。
残しをくそのみどり子、っていったい誰かとなりますが、このとき二歳の子どもがいていたと。それがのち成長して、岩佐又兵衛という人物になったという話があります。これが秘話。
本当にその岩佐又兵衛というのは村重の子なのかということになりますが、実は村重の孫じゃないかという人もあります。


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