明治三十一年にこの岩佐又兵衛の、岩佐又兵衛は村重の母方の姓を名乗ってるんですね。
その岩佐家の家系図が発見されたんです。その家系図を見てみると、実在の人物であるということには間違いない。
長じてどうなったかということですが、いろいろ話がありますが、後には三代将軍家光の娘さんである千代姫ですが輿入れするときに、彼女がもっていく調度品にこの又兵衛が絵をかいたとかね。福井の松平藩に仕えるのですが。
また江戸の浮世絵の非常に有名な絵師であったとかね。江戸の浮世絵を始めたのは菱川師宣という有名な浮世絵師がおりますが、あの人と並び称されるくらい、浮世絵で評判になった人だといわれているのです。これが本当だったらほのぼのとしたいい話ですね。
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だから有岡城跡には皆殺しにされた非常に悲しい話と、ひょっとして岩佐又兵衛というのは生き残ってですね、その「残しをくみどり子」であって、これが母の願いのとおり成長してね、そういうものになったと考えれば、非常に楽しい話でもあります。
ただこれはまだまだ調べる必要があるでしょう。こうして有岡城が落城したあと、一応城は池田氏が入るのですが、これがまた移封されましたあとは、伊丹の町には城はあったにもかかわらず、領主なし。徳川の直轄領になります。
直轄領になったということが、そののちの伊丹の町の発展に、ほかには例をみない伊丹郷町、郷町というのは、町や村がひとつづきになって固まって栄える町なのですが、そういうものができるのに、領主のなかったということが非常に大きな影響を与えているのではないかと思われます。
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その後、寛文元年(一六一一)に近衛領になりまして、以後近衛さんは非常にお酒を奨励しました。
もともと近衛さんというのは、京都の宇治に領地をもち、あそこのお茶に非常に執心があったのですが、お茶のところに帰りたい帰りたい言いながらもやがて伊丹に落ち着いて、酒造りに力を入れてくれます。
そういったことで、爆発的に伊丹の産業が発展していくと同時に町も栄えていきました。
おかげで文化も栄え、伊丹の生んだ有名な俳人、上島鬼貫という、鬼貫の話はまたございますのでここでは詳しくは申しませんが、芭蕉と並び称されるこの人をはじめ、伊丹には伊丹風俳諧というのが栄えまして、当時の文化人の書いた有岡逸子伝というのが今でも残っております。
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その中に実に七十七名の方の名前があがり、非常に伊丹の町が栄えていました。
もちろん茶の湯も非常に盛んでした。伊丹の町でよくお茶の会が開かれたということもいわれています。
それからまた伊丹市は公家の領地でありましたから、幕府は直接踏み込めません。
そのために全国で活躍しておりました勤王の志士たちも、安心してかどうかまでは言えませんが、伊丹の町へよく来ております。一つのいい隠れ里にもなったということです。
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