第十一章 地名が語る伊丹の歴史
〜それ以外の旧村地帯〜
安達 文昭

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 博物館の一階ロビーのところにね、昭和三十一年(一九五六年)に撮影された航空写真、上空から撮影された伊丹の町の写真が、ずらっと何枚か並んでいます。博物館へいらっしゃる機会がありましたら、ご覧になってください。いまから四十一年前の、千僧今池の様子が写っていますよ。
 それで、千僧村は、和銅六年(七一三年)に千僧供養が行われたので、その地名が起こったといわれています。それから、この村の中を、昔日のメーンストリート、西国街道が横切っております。前回のときに申し上げました、「辻の碑」のある辻村から、伊丹坂を登って、大鹿を過ぎると、この千僧であります。


 で、そこをさらに西へ進みますと、「昆陽村」でした。現在の大字でいいますと、昆陽、昆陽池、昆陽北、昆陽泉町、美鈴町です。その昆陽村は、江戸時代、西国街道の宿場町でした。昆陽宿という宿場があり、そこには町場特有の地名、まあ農村地帯なんですけどね、だけども宿場町でしたから、「東町」「中町」「大工町」「市場町」「佐藤町」「辻ノ町」、そういう町と称する地名がありました。
 それから、「馬場」あるいは「馬場口」といった地名もありました。宿場町の名残をうかがわせますね。そこには、馬がつながれておったのではないでしょうか。天保十四年(一八四三年)の史料を見ますとね、馬が二十五頭いたと、宿場の馬としてですね。そういう記録も残っております。それから、「札場の辻」という地名、これはいまもバス停にだけ名残をとどめております。その辻には、高札がかかげられたんでしょうね。

 それで、この昆陽村というところが旧稲野村十カ村の中核をなしたところでありまして、そこには、昭和十五年に伊丹町と合併するまで、稲野村役場がありました。その役場の跡地に近い、西国街道、昆陽三丁目となっているところですけれども、そこにね、いまも「稲野村道路元標」と刻まれた石柱が建っています。この前のときに申しましたね、この長寿蔵の前、産業道路ぞいの小西酒造さんのちょうど角っこに、「伊丹町道路元標」が建っていると。それと同じような「稲野村道路元標」、ところが元標の「標」という字がですね、アスファルトの下へめり込んだのか、上からアスファルトを無造作に塗って埋めてしまったのか、残念ながら、「稲野村道路元」までしか見えないんですよ。

 その場所をですね、南北に細い旧街道、さっきいうてた有馬道ですが、それが横切っております。その道を北へ進むと、昆陽池です。昆陽池は、奈良時代の偉いお坊さんである行基によって作られた、人工池です。行基菩薩(六六八〜七四九)は昆陽寺を建て、多くの田んぼを開墾し、それから、先ほど言ってました昆陽上池、昆陽下池など、五つの灌漑用の溜池を築造しました。いまバードウオッチングの名所として人々に親しまれています昆陽池、それは行基が掘らせた、昔の昆陽上池だったんですねえ。

 それから、次は、「寺本村」です。昆陽地区の西側ですね。そこはその名が示すとおり、昆陽寺の門前集落でした。昆陽寺は天平三年(七三一年)、行基によって創建されたわけですけれども、戦国時代の天正七年(一五七九年)、荒木村重の有岡城が落城した年でありますが、このときに、信長の兵があちらこちらにワーッと火をつけてまわったのでしょうか。伊丹廃寺も天正七年に焼き払われたそうですが、昆陽寺もまた、その戦火のために焼失したということです。
 で、江戸時代になってから再建された山門および観音堂、これは現在、県指定の文化財となっております。レジメに、その昆陽寺の山門の写真を載せておきました。阪神大震災のとき、山門も被害を受けましたけど、倒れることなく健在であります。しかし、震災直後に見に行ったとき、仁王さんの立っておられる正面のですね、赤い太い柱、それがあの物凄い縦揺れ横揺れで、三十センチほどずれておりました。左右に大きくずれて、また戻ったんでしょうか。


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