第十一章 地名が語る伊丹の歴史
〜それ以外の旧村地帯〜
安達 文昭

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 それで、今日の初めのところで、神津村八カ村が伊丹市と合併したのは、戦後の昭和二十二年(一九四七年)と申しました。しかし、そのときにはもう、八カ村ではなかったんです。八カ村のうち、すでに、小坂田村という村と、東桑津村という村、この二つはもう、空港用地となって、消滅してしまっていました。
 その消滅した村からいきます。まず、「小坂田(おさかでん)村」です。昭和十五年(一九四〇年)に、解村して、姿を消しました。全域が飛行場になったからです。集落も農地もすべて空港と化した、というわけですね。先ほど申しました、空港ターミナルビルのあたりが、この小坂田村の集落だったようです。
 で、江戸時代とか明治時代の古い村絵図を見ますとね、もうまったく整然と区画された水田地帯、まっ四角あるいは長方形、そういう形の水田地帯の名残がうかがえるんですよ。その小坂田村の農地から、空港が建設されるときにですね、弥生式の土器や石で作られたヤジリ、矢の先に付けるとがったものですが、そういうものが見つかったといわれております。


 次は、「東桑津村」です。ここも、同じく昭和十五年に、解村しました。いま大型ジェット機が離着陸するB滑走路、三千メートルの滑走路ですね、それの中央部付近が、かつての東桑津村でした。で、神津小学校は、いちばん最初の名前は大塚小学校というてたそうです。それは、この東桑津村の「大塚」というところにつくられた小学校ということで、そういう学校名がつけられたんだそうであります。
 ところで、現在、桑津橋のすぐ近くにですね、「東桑津」というところがあるんですよ。そこは、昔の東桑津村の飛び地だったところなんです。そのために、いま西桑津の西に東桑津があるという、奇妙なことになっているわけですね。

 それから、次に、「西桑津村」です。こども文化科学館、プラネタリウム館などのあるところです。この村もまた、東半分くらいが空港用地になりました。それで、この地区はまだ住居表示法が適用されていませんのでね、日東紡績の伊丹工場のところに、きわめて特徴的な小字が残っています。「西桑津字流作(ながれさく)」という地名です。変わった名前ですね。
 この「流作」というのはですね、流し作場だったことを物語る珍しい地名なんです。それは、川が近くて、いつも水害の脅威にさらされる農耕地のことでしてね、まあ年貢が低く抑えられておったようであります。そのことを物語る、「流作」という地名があるんですよね。だけど、この貴重な小字も、もうやがて時間の問題で消滅するんでしょう。


 それで、私、日東紡の付近でちょっと取材してみたんですよ。実地検証も兼ねましてね。そうするとですね、昭和五十年(一九七五年)ごろまで、この「流作」というところは、猪名川の堤防の内側に位置したんだと、つまり、河川敷だったというんですよ。いまの堤防はもうほぼ直線状に、ダーッとまっすぐ続いてますけどね。
 それで、こんどは、江戸時代の古い地図を調べてみたんです。そうしますと、昔の猪名川の幅は、なんと五百メートルほどあるんですよ。村の人たちはもっと東のほうに昔の堤防があったというから、その痕跡を求めて、そのへんを歩いてみました。すると、土地に起伏があって、「ああ、ここが昔の堤防か」と実感できるようなところがありました。
 とにかく、江戸時代の古図を見ますと、猪名川の、水の流れてるところじゃなくて、河川敷そのものですね、いわゆる堤防の内側、それは五百メートルもありましてね。ですから、いまの桑津橋の長さの二倍くらいの川幅ですわ、ね。その広々とした河川敷に、農作物を栽培する農耕地があったんでしょう。その場所に、「流作」という地名がつけられていたわけです。しかし、大水が出たら、ひとたまりもありません。農作物が流され、収穫が見込めないんですから、この地名は悲しい響きを感じさせますね。


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