第十二章 伊丹酒造業と小西家
〜古文書からの考案〜
石川 道子

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表1  
表2  
表3  
資料A  
資料B  
資料C  
資料D  
資料E  
資料F  
資料G  
資料H  
資料I  
資料J  
目次へ  
 
 3 伊丹の町政と小西家
 小西家は酒造業者としてとともに、惣宿老家としても大変古い家筋です。伊丹郷町の町政は宿老制を敷いていました、伊丹郷というのは、伊丹村を核としてまわりの十数か村が軒をつらねて町場化したところなのですが、このような郷町は大坂を中心に点々と存在し、経済や文化の中心地点となったところです。
 このような郷町の頂点にいて町政をつかさどるのが惣宿老で、その下に町庄屋、そして町々の年寄、村々の庄屋・年寄があり、酒造業においては酒造年行司が置かれています。この惣宿老制は、近衛家が寛文元年(一六六一)伊丹の領主となってしばらくして、元禄十年(一六九七)に制度化されました。


 このとき惣宿老家に酒造家二〇余家が指名され、毎年二人ずつが惣宿老当役につき郷町の運営の中心に立ちますが、惣宿老家は有力な酒家でして、小西家は惣宿老制が採られた最初からこれに任命されています。
 このように惣宿老家が定まったのですが、酒家の盛衰によって、最初の二〇数家から没落する家も多く、享保期を過ぎたあたりから家数が減少しはじめ、明和期(一七六四〜七一)になると筒井(小西)と八尾の両家だけになってしまいます。
 つまり早期の有力な酒造業者のほとんどが没落しているわけですが、代わって新しい酒家が出てきており、あらたに彼らを酒造年行司家として任命しました。

 酒造年行司も以前からのものですが、惣宿老と同じように家の盛衰によって代わっています。この酒造年行司が惣宿老を補佐することになったのですが、それでも両家の負担が大き過ぎますので、また近衛家に訴えて、酒造年行司のなかから惣宿老加勢役を任命し、さらにその後惣宿老の定数をだいたい五家とし、減少すると年行司から追加し、年行司の数が少なくなったときは、役のない酒造家を年行司に取り立てることにしました。
 惣宿老制をみても、江戸前期からの酒造家が消えて行きあたらしい家が起こってくる、当然のことでもあるのですが、伊丹の変貌に触れることができます。
 このような変遷のなかで、小西家は惣宿老制の初発から代々の当主がこの重役を継承しているのですが、さまざまな情報がいち早く伝えられる位置にいたという側面もあったと思います。
 以上が伊丹郷町における小西本家および分家・出店ですが、次に小西家が手酒の輸送と販売のために設けた、大坂の廻船問屋と江戸の酒問屋をみてゆきます。

 4 廻船問屋
 先程少し触れましたが、伝法の廻船問屋の成立は伊丹の酒造家の後押しによるところが大きく、寛文期から元禄期という、伊丹酒造業が活況を呈していた時期、酒造家が廻船業にも進出しています。
 小西家が伝法に廻船問屋を持つのは、時期的には、一七世紀の末ころではないかと思われます。といいますのが、天和二年(一六八二)、伝法船問屋四軒から伊丹酒造家中に、酒を船積みするにあたっての約定書を差入れた史料があり、これには小西新右衛門の名前はみえないのですが、元禄十四年(一七〇一)の廻船問屋の名前のなかに小西新右衛門が連名していますので、廻船問屋を持ったのはこのあいだであろうと推測できます。さらに正徳二年(一七一二)には、手代の名前で南伝法に家屋敷を購入しています。
 この時期、伝法船問屋に進出した伊丹の酒造家は小西家だけでなく、丸屋五郎兵衛・大鹿屋三郎兵衛・堂屋藤兵衛なども伊丹の酒造家の出店ですし、安治川の廻船問屋津国屋市郎兵衛もそうです。


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