のち小西家は安治川に移ります。ある史料では正徳期に安治川へ移ると記したものがありますが、小西家の史料では、享保七年(一七二二)にはじめて、酒荷物だと思いますが「十三駄安治川ニ有」とか「弐拾三貫三百九十八匁八分四厘安治川新通」という項目がでてきます。
享保十七年には、安治川北一丁目というところに三〇〇坪程の土地に間口一〇間、奥行き二五間の家屋敷を購入して廻船問屋を営業していますが、享保二十年の顧客をみますと、やはり伊丹の酒家二〇家ほどの名前がみえます。
この廻船問屋は、享和二年(一八〇二)に養子新六に譲られましたが、このとき新六が譲り請たのは、家屋敷・廻船問屋株・廻船・正銀、このほかに安治川北一丁目に二カ所、同二丁目に一カ所、平右衛門町に一カ所の掛屋敷があります。
小西家の船をみますと、最初にわかるのが、正徳二年の史料です。これに「三神丸」という船のことが出てきます。同じ年に、船名はわかりませんが、惣太夫という船頭が乗っていた船がもう一艘あります。三神丸は享保四年(一七一九)に部品を売っていますので、このときまで、大坂・江戸間を運行していたようです。
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三神丸については、ある程度くわしいことがわかります。この船は正徳二年に造られたのですが、要した費用が銀三一貫六七五匁余で、大きさは九二〇駄積みの酒荷物専用の廻船です。
経費のうち三〇貫六五〇匁余を小西家で出し、残りを伊丹の酒造家である紙屋八左衛門・松屋与兵衛・升屋三右衛門が出資し、同年十月から、それぞれの出資額に応じて利益が配分されています
廻船を建造するとき、このように共同出資のかたちが多く、「廻船加入」というように記されていますが、小西家でも廻船加入をして、その船からあがる利益を出資額に応じて受け取っています。
資料(G・H)が廻船加入証文です。資料(G)のほうは、天明二年(一七八二)に造られた、九〇〇石積みの廻船の建造費用のうち一歩、銀四貫一九九匁九分二厘五毛を小西新右衛門が負担し、毎年徳用銀の配分を受けることになっています。
資料(H)は、小西新六が所持した幸福丸に、新宮屋平兵衛が五厘の出資をしています。
もちろん、なかには海難事故で破船などして、利益どころではなく、損益を蒙ることもありますが、いくつもの廻船加入をしておりますので、年々の勘定帳にこれらの徳用銀が計上されています。
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5 酒問屋
小西家で造る酒は江戸積みの酒ですから、販売地は江戸です。品物の売買は、先方からの注文によって送るものと、こちらから送って売ってもらうものがありますが、酒は、こちらから酒問屋に送って売りさばいてもらう商品ですので、問屋には積極的に市場を開拓してもらわなければなりません。問屋がいい加減では困るわけです。
本人が行って売ったり宣伝をすれば一番いいのですが、そうもゆきませんから、本人の代行人をおきます。
小西家の史料で江戸積みをしていたことが窺える最初の史料が寛文三年(一六六三)の勘定帳なのですが、これに「壱貫五百拾五匁 江戸ニ有」とあり、翌年には、 「壱貫三百六拾匁 諸白廿七駄半 江戸へ下代」、ほかの記載があり、以後も連年、江戸からの登り銀その他が記入されています。
ただ、このときから江戸積みをはじめた、ということではなくて、このくらい古くなりますと、史料がごく限られるものですから、その先がどうであったかということはなかなかわかりません。
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上方で造られた酒が最初に廻船で江戸に送られたのが元和五年(一六一九)といわれていますので、小西家も早い時期からの江戸積み酒造家であったことがわかります。
本家から送られた酒は江戸で販売人によって売りさばかれます。ここで、先程ふれました分家伝左衛門の話になるのですが、伝左衛門は分家したあと江戸に酒問屋を開き、元禄十六年(一七〇三)の酒問屋一二六軒のなかにも名前がみえます。この人が小西家の江戸酒問屋を開いたといわれていますが、どうもそうではないのではないかと思っております。もちろんまったく無関係というのではなく、先ほどの勘定帳にも、江戸の伝左衛門の名前が確かめられるのですが、それが直接、小西家の江戸店の創始者と結びつけるのはできないのではないかと。伝左衛門は江戸に酒問屋を開きますが、伊丹で一二〇〇石余の酒造をしているのですから、江戸の伝左衛門の問屋店は、伝左衛門家の造り酒を売るための店で、これは新右衛門家の出店ではありません。
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