また、後の新右衛門家と江戸店のかたちは、分家ではなくて新右衛門家の直営なのですが、仮に分家伝左衛門店を本家江戸店の創始としますと、新右衛門家の江戸店は分家となり、直営とはならなかった筈です。
そこで調べてみますと、元禄十四(一七〇一)年の史料に「伊丹酒店支配人中」という記述があります。次に享保三年(一七一八)の史料に「住吉講連中」というのがあり、このなかに小西新右衛門の名前が出ています。
これは、江戸に問屋を持たない上方の酒家が江戸に設けた販売人の組織なのですが、この人たちは江戸の町で間借りをして、そこを拠点に販売活動もし、宣伝もし、情報を集めて上方の本家へ流し、売り上げの集金から本家への送金まで、江戸で本家の代行をしている江戸出張機関です。この住吉講のなかに小西新右衛門の名前があります。
小西新右衛門のほかに、丸屋喜兵衛・丸屋伊右衛門・堂屋四郎右衛門・稲寺屋二郎三郎・油屋七兵衛など、一六人の伊丹酒造家の名前が記されています。このころまで小西家では江戸に支配人を派遣し、販売に関する諸業務を行なっていたと思われます。
ところが、同年十二月の史料に、江戸店に暖簾を新調したということが、たった一行ですが、書かれていまして、このころから小西新右衛門の独立した江戸酒問屋があらわれます。
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小西家に残る江戸店については、名義がすべて「小西利右衛門」となっていて、新右衛門という名前が出てくる史料が見当たらなかったので、わかりにくかったのですが、他の史料から、安永九年(一七八〇)の史料ですが、内容はもう少し前のものと思われる江戸酒問屋・直請問屋を表(2)にまとめました。これに小西新右衛門名義の「江戸酒問屋」と利右衛門名義の「直請問屋」が出ています。この表には、当時の江戸の酒問屋全部が記されていますが、茅場町組の一番上に「小西新右衛門、伊丹、売り場茅場町、江戸住居坂本町」とともに「小西利右衛門、坂本町」がみえます。
江戸酒問屋というのは、手広くどの酒家の酒も受け入れて、小売り店に卸す問屋で、直請問屋は本家の酒を受け入れる問屋という理解でよいかと思いますが、この新右衛門店と利右衛門店がのちに統合されて利右衛門名義になったようです。
文化三年(一八〇六)、小西家では南茅場町の家屋敷を買い取ったのですが、そのときの証文に、利右衛門が、自分は伊丹魚屋町小西本家の江戸酒問屋店の支配人であり、このたび本家の「名代」として、家屋敷を買い求める旨の記載があります。このような記述からみても、江戸の酒問屋は本家の所有する直営店で、ただ、店の名義を支配人の利右衛門としていましたので、このあたりがわかりにくく、これまで分家といわれていたようです。
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天保四年(一八三三)、小西家では江戸にもう一軒酒問屋を開店します。江戸西店といわれる店ですが、これについても、いままで分家利右衛門が出したようにいわれていましたが、西店は、九代新右衛門が長子新太郎に家督を譲り、利作と改名して、江戸に出した問屋店で、店には支配人を置いていました。
江戸の酒問屋ですが、先程申しましたように、元禄十六年(一七〇三)には一二六軒の問屋があります。それが天保期になりますと、三八軒までに減少していますので酒問屋も大変競争の厳しい商売だったようです。
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小西利右衛門店をみてみますと、このころ江戸の酒問屋の最大手に成長しています。
この利右衛門店で扱っていた酒の種類の一分が資料(K)の「売付写」に記されています。酒の名前と数量、その下には符牒で代金が書かれていますが、このように江戸出店は、本家の酒ばかりでなく、上方の多くの酒造家の酒を扱っています。
利右衛門店は大変繁盛したのですが、表(3)をご覧になってください。
この表には、近世を通じてもっとも多く酒が江戸に送られた、文化七年(一八一〇)から文政七年(一七二四)までのあいだに、各酒問屋で引き受けた酒樽数の一年間の平均が出ているのですが、これによりますと、一年間に江戸の酒問屋が引き受けた酒が、平均一一五万四四〇〇樽、これが三八軒の問屋の総計ですが、このなかの一一万二〇〇〇樽、およそ一割が小西利右衛門店にはいっています。二番目が鹿島清兵衛店で四万九八〇〇樽、三番目が鹿島屋利右衛門店の四万八〇〇〇樽というように、断然多くの取り扱かい量になっています。
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