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おわりに
伊丹の酒造業についてお話させていただきましたが、江戸積み酒造業というのは、酒を造っているばかりではなくて、江戸へ送るための廻船を支配し、江戸では送られた酒を販売し、その代金を本家に送金して、それで一応その酒造年度の仕事が完結するという、伊丹・江戸それと海上までも視野にいれた事業です。
伊丹郷町のなかの酒造部門をみましても、数十軒の酒家が立ち並び、単に酒、ではなく、酒にかかわる種々の産業、米屋・桶屋・樽屋・竹屋・柿渋屋、蔵働人、またその人たちの食事の賄い、蔵の修理、それからアルバイトに米踏みに行くとか、縄をつくるとかで収入を得る近隣の農家の人たちもいますし、その経済効果は非常に大きく、周辺にも広くおよんでいます。
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また華やかな産業でもあったのですが、反面リスクも大きく、永続することがむつかしかったようで、元禄十年(一六九七)に酒家のなかから選出された二〇数家の惣宿老家が、七〇年ほどのちの明和期(一七六四〜七一)になると、わずかに八尾家と小西家だけが残っていたというような状況です。
江戸時代から明治に変わるとき、酒造制度も大きく代わりまして、伊丹の酒家が激減するのですが、このような流れをみたとき、小西家のように近世初期前後から現在にいたり、延々と操業を続けている酒造家というのは大変めずらしいことです。
古い史料にみえる小西家は、伊丹のなかで決して小さくはないのですが、特出した大酒造家というものでもありません。稲寺屋とか油屋・升屋・木綿屋など大きな酒家がありましたが消えていっています。どうして没落したかというのは、ある程度その原因となるようなことはわかり易いと思いますが、次第に大きくなりながら永続した原因というと、なかなかこれというのもむつかしくて、ここでお話する用意もなく、これから勉強しなければなりませんが、今回は、伊丹の酒造業が、単に伊丹郷町のなかで行なわれた産業にとどまらず、輸送する廻船から江戸の販売市場までを視野にいれた、スケールの大きな産業であったということで終わらせていたきます。
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伊丹市酒造家史料調査員
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