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2 中世僧坊の酒、伊丹諸白の原形
中世というのは、朝廷の権力が衰退し、それにかわって武士が台頭する時代で、朝廷直営の酒造も凋落しますが、酒造技術はもっと広く民間に移行してゆきます。そして、それを取り入れるのは、やはり中央政府に近く、また酒の原料である米が年貢としてはいってくる大寺院でした。寺でおおっぴらに酒造り、というのはミスマッチのようですが、神仏混淆時代、寺内の社に祭られた神様に捧げる神酒を造ったところから来ているといわれています。
中世以前、古代の酒、朝廷の酒はともに、自分たちが呑んだり、あるいは朝廷が必要として造る酒でしたが、中世になりますと、宋から銭が大量に輸入され、否応なく貨幣経済が進展し、一三、四世紀になると、酒も利潤を得るための営業酒として造られるようになります。
そうしますと、より美味しい酒、より売れる酒ということになり、さまざまな試行錯誤が繰り返され、酒造技術も向上します。
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寺院の酒では、京都の柳酒、河内の天野酒、大和の菩提泉、近江の百済寺などの銘酒が有名で、やがて「諸白(もろはく)」という酒が造り出されました。
「諸白」と申しますのは、大和の国の寺院で造られた酒で、酒造史では画期的な酒といわれています。なにが画期的かといいますと、これまでの酒は、麹米には精白していない米、それに仕込む蒸米には精白米を使用していたのですが、諸白では、今の日本酒と同じように、麹米・蒸米ともに精白米を用いました。また酒を仕込む際、麹・米・水を一度に仕込んで発酵させるのではなく、数回にわけて仕込んで行くのですが、この作業によって酒造中、腐敗菌が増殖しにくく成熟度の高い酒が得られます。この方法も試みられています。
大和で造られたこの酒は「南都諸白(なんともろはく)」といわれ、この酒造法が次代の酒造地伊丹・池田へひきつがれ、仕込み方法が確立され、現代の清酒(日本酒)にいたります。
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一五世紀中後期に起こった応仁の乱(一四六六〜七七)を契機に、室町幕府を中心にした荘園領主制が動揺をきたしますと、荘園領主のもとで繁栄した酒造りも没落し、各地に戦国大名が割拠し、その領国の中心である城のまわりに城下町ができ、そこにいろいろな商売をする人たちが集まって来て、そのなかには当然酒屋もあります。酒造業はこのような城下町や、米その他の物資が流通する湊町などを中心に展開されます。
社会的な背景とともに、道具の発達もあります。酒造に欠かせない道具のひとつに桶がありますが、この時代に木製の大型のものが出てきたようです。それまでは陶器の瓶が使われていましたが、大型の桶になると輸送にも便利で、商品としてより遠いところへ運ぶことが可能になりました。
現在の日本酒の原形になっている諸白酒が出現し、容器なども改良されつつあったところで、世の中が大きくかわり、江戸時代を迎えると、伊丹をはじめ上方の酒が一躍脚光をあびることになります。
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