二 近世の酒の流通機構
1 下り物
戦国時代が終わり、徳川家康が江戸に幕府を開くと、これまでの戦国大名の領国が否定され、江戸を中心にした中央集権的な国の体制が整えられます。これまでの、ある一定の範囲で完結するような経済流通が、貨幣や度量衡も統一されて全国的なものに拡大します。交通事情もそうです。道路もですが航路のほうも江戸時代初期に整備され、物資の輸送も安全になるわけです。
上方から江戸に送られた酒は「下り酒」といわれていましたが、なぜ下り酒かといいますと、いまは東京に行くことを上るといいますが、当時はこちらの方に都がありましたので、こちらに来るのが上る、江戸に行くのを下るといいます。ですから、上方から江戸に送った酒ということで下り酒。これは酒に限らず、ほかの生活物資全般を上方から江戸に送るというかたちができあがり、江戸に送られたものは下り物といわれ、高級品、舶来品として喜ばれました。
米洗いの図(「日本山海名産図会」より)
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2 江戸の人口
江戸は、徳川家康が将軍として入ってから急速に発展した都市で、小さな城はありましたがそれまでは東国の田舎です。一五世紀のなかごろ、太田道灌という武将が江戸城を築きそこに居住しましたが、その頃は箱根よりむこうは鬼がいるといわれた時代で、文化の先進地である上方からみると、江戸というのはまだまだ異境の地だったわけです。
ここに江戸城が築かれ、将軍の家臣団も入り、寛永年間には参勤交代が制度化されますと、全国の大名が江戸に集まります。当然その家臣もいっしょに来ますし、大名の家族は人質的な意味で江戸に住むわけですから、急がれる町造りのための職人や人足、また、多くの武士階級の人たちの日常生活をまかなうための物資と、それを扱う職人、商人たちが全国から集まってきます。
糀造り
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江戸の人口をみてみますと、寛永十年(一六三三)の調査でおよそ一五万人ほどだったものが、元禄六年(一六九三)年には三五万人あまりになっています。
江戸時代、一般的には毎年、人別改めが行なわれ、江戸においても行なわれたのですが、これは町とか村の一般庶民にたいして行なわれ、大名家については幕府も調査ができませんので、これには武士の人口は含まれていません。
ということで武士の人口はわかりませんが、町人々口と同じか、少し多かったのではないかといわれています。ですから元禄期には七〇万あるいは八〇万ほど、中期には一〇〇万を数える人たちが江戸にいたということが推定されています。この都市人口はこのころのロンドンやパリよりも多かったのだそうですが、その居住地をみますと、武家屋敷がおよそ七〇パーセント、寺社地が一五パーセント、残る一五〜一六パーセントの土地が町人地という割合だったそうです。いま、東京は過密都市といわれていますが、東京の過密はいまにはじまったことではなく、江戸時代からずっと続いていたようです。

モトおろし
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さきほど申しましたように、太田道灌の小さな城下町から、いきなりこのような膨大な人口を抱えた振興都市が出現したわけですので、生産力ということをみると、到底この大勢の人たちをまかない切れるだけのものは持っていません。
そこで、これをどこに求めるかというと、高度な技術を持ち、生産力の高い上方です。大坂が全国の物資の集散地として発展するわけですが、とくに江戸という大市場と結びつき、さらに川村瑞賢による西回り航路の開発によって飛躍的に伸びて行きます。
酒はこのような、江戸という大消費地の需要を満たすために、日本の中心となる経済航路のなかで発展した商品だったのです。
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