もう一つ、資料(B)は領主近衛家からのもので、今年の酒造りは株一〇石について七駄片馬、つまり四斗樽で一五樽の造りにするようにと触れているのですが、酒も需要と供給の関係で値段がつきますから、伊丹酒が江戸で薄利多売にならないよう、高級酒であり続けるためには郷町全体での調整も必要ですし、ほかの酒造地との競争もあり、ただ造ればよいというわけではありませんので、売れ行をみながら、年々このような触れも出ますし、酒造家仲間の申し合わせも行なわれました。このような造り高のことと、次の箇条は酒造りの開始日限を触れています。こちらのほうは、酒造家がよい日に造り掛るようにと触れられています。
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酒造りに大きな意味を持つ酒株ですが、酒株にもいろいろな種類がありまして、摂泉十二郷の中でも地域によって違っていることもあります。伊丹の酒株は白米株で、幕府へ納める冥加金を不要とする株です。白米株にたいして玄米株もあり、白米株のほうが特権的に取り扱われていたようです。冥加金のほうは、伊丹・池田・西宮・兵庫など古い酒造地域のものは、幕府に冥加金を納めなくてよい無冥加株ですが、新しい酒造地帯である灘の株はすべて冥加金が賦課される冥加株でした。さらに、江戸積みを許可された江戸積株と、地売りを行なう地売株の別もあり、伊丹では、地売り酒家もありましたが、ほとんどの酒家が江戸積みを行っていました。
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3 灘と籾買入株・辰年御免株
いま申しましたほかにも、籾もみ買かい入いれ株・辰たつ年どし御ご免めん株などという酒株があります。籾買入株は寛政期に灘目の酒造家に許可された税金付きの株です。辰年御免株も同様に、天保三年(一八三二)に設定された税金付きの酒株ですが、この年がちょうど辰年だったので辰年御免株といわれました。
このような株ができたいきさつがあるのですが、辰年御免株が設定されるについては、これより以前、文化三年(一八〇六)に、勝手造りが発令されたことに発しています。
勝手造り令といいますのは、制限令と逆に、たくさん造れという方で、この当時、豊作が続いて米価がどんどん下がってきましたので、これを安定させるために、酒造りを奨励したのですが、このとき、誰でも、株を持ってない者も造ってよろしい、持っている者は株高に制限されず、いくらでも造ってよろしいという触れが出ました。そこで、みんながどんどん酒を造りました。とくに灘ではすごかったですね。
このころが江戸時代を通じてもっとも酒造が盛んだったときでして、年間一〇〇万樽(四斗樽)以上の酒が江戸に入っていますが、そのうち五〇パーセント余りが灘の酒です。
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ところが、天保期になると、今度は不作になり、打って変わって制限令が出されるのですが、では今まで酒株なしでやってきた者はどうなるんだ、ということになり、それでは、ということで、天保三の辰年、今まで造っていた石数を申告させて、それで交付された株が辰年御免株ですが、税金付きの株でした。
籾買入株はこれより早く、寛政四年(一七九二)に設定された株ですが、急成長している灘の酒にかけられ、この冥加銀で、災害に備えて備蓄用の籾を買い入れるという名目の酒株です。
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