第十二章 伊丹酒造業と小西家
〜古文書からの考案〜
石川 道子

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表1  
表2  
表3  
資料A  
資料B  
資料C  
資料D  
資料E  
資料F  
資料G  
資料H  
資料I  
資料J  
目次へ  
 
 このころ伊丹から江戸へのルートは、
伊丹―(馬)―神崎、あるいは広芝―(天道舟)―伝法―(廻船)―江戸
 というルートですが、資料(C)では、伊丹から神崎への駄送について酒家中が申し合わせをしています。元禄期のものですが、当年の冬酒の出荷日限を十一月十三日から、お互いに決めた割り付けを守って荷出しすること、もし早く出したり、割り付けより多く出すようなことがあれば、その酒は仲間が取り上げる、という申し合わせです。惣宿老という伊丹郷町のトップに立つ町役人を拝命していたほどの大酒造家が、この申し会わせを破ったことが大きな原因になり没落したと思われる例があります。
 次は船に積み込むわけですが、神崎から伝法へ、また伝法から江戸への廻船業者、これらの輸送業者にたいしては、酒家は伊丹酒家中という組織でもって、彼らの不正や、船の状態、たとえば老朽船は使わないとか、船の大きさなどについて積極的に関与しています。
 川村端軒によって東廻り・西廻りの航路が開発された寛文期ころは、伊丹酒造家が後押しする廻船の活動が活発になり、酒を中心に、ほかの荷物も積み合わせて江戸に送られたのですが、この船が小こ早ばやといわれる船で、後の樽廻船の先駆けのような船です。


 2 猪名川通船
 伊丹から馬で神崎へ、ということを先程申し上げましたが、これは後になりますと、猪名川を利用して船で送っています。
 猪名川通船が許可されたのが天明四年(一七八四)でして、それまでも延々、いろいろな人が申請しているのですが、なかなか許可されず、最初の出願から一世紀半ほどたってようやく許可されています。といいますのが、この通船願いにたいして、伊丹・昆陽・小浜そのほか近隣の宿駅が大反対をしています。宿駅の運送業者にとっては自分たちの生計にかかわる問題ですので反対するわけですが、安永九年(一七八〇)に伏見船の元締め坪井喜六という人が出願し、天明四年に許可されました。このころの伏見船の状況をみますと、ほかの高瀬船などと競合して困窮しているときで、この助成ということで許可になったようです。

 最初の計画は猪名川の上流、池田からということだったのですが、やはり池田の馬借が反対しまして、少し下流の下河原村(伊丹市)から伊丹郷町をとおり、戸之内村(尼崎市)もしくは神崎までの運行で、伊丹郷町では、正雲坂近くの猪名川筋に船着き場を設けました。
 このときの約定書には、船数一〇〇艘、農業用水の必要なときは船を通さない、船賃は人馬による陸送より二割安などの記載があり、また、酒に関する荷物は船に乗せないと記した史料もありますが、酒も船で送っており、町役人の記録にも、毎年の船賃の交渉などの覚書が残っています。

 3 菱垣廻船
 一七世紀には大坂・伝法に廻船問屋が成立するのですが、初期はまだまだ廻船問屋の不正などが多く、それによって生じた損害は荷主の負担になります。
 海に出れば、船頭次第。遭難のさい船を軽くするため荷物を海に投棄することを刎はね荷にといいますが、船が沈みかかったので荷物を刎ねたといって、本当はどこかの湊で売って、そのお金で遊んでいるかも知れないし、ネコババしていてもわからない。刎荷をしても、五〇個刎ねたといいながら、実際は一〇個かも知れない。陸にいる荷主はどうしようもないわけです。
 そこで、江戸の問屋と大坂の問屋がタイアップしてこの取り締まりに当たることになりました。
 元禄七年(一六九四)、江戸十組問屋を結成します。十組問屋とは、塗物店組・薬種店組・釘店組・綿店組などの十組ですが、酒店組も入っています。大坂の問屋組合もこれに呼応し、荷主組合で廻船を支配しようという組織です。これでこれまでの廻船問屋と荷主の立場が逆転しました。廻船問屋がこれに従属するようなかたちになり、この船を菱垣廻船といいました。


 菱垣廻船というのは、目印として船に菱形の垣かき立たつを用いましたので菱垣廻船といっております。
 十組問屋では、各問屋に行司を置き、このなかで大行司を選出し、船の管理をしますし、遭難したときは、大行司が現場に出向いて調査し、遭難した荷物の処分をして、荷主全体でその損害を負担するという相互補償制度ができあがりました。
 損害補償のかたちには二つありまして、一つは、破船、つまり船自体が壊れてしまった場合は、海に浮いている荷物あるいは沈んだ荷物のうち可能なものは陸に揚げ、そこで競売をします。その売り上げを積載荷物の量によって荷主に分配するのですが、これは被害が大きい。もう一つは、難船といって、先程申しました刎荷です。船を沈ませないために荷物を捨てるのですが、この捨てられた荷物の損害も共同で負担しますので、この分を荷主全体に割りつけるわけです。
 このように、廻船を荷主組織が管理支配することによって海難事故が少なくなり、廻船も増えて、享保八年(一七二三)には菱垣廻船は一六〇艘に達しています。


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