表(1)は、寛文五年(一六六五)・元禄十年(一六九七)・正徳五年(一七一五)の伊丹の酒造家の株高を示しています。
古株とある四八人が寛文五年には営業をしていた古くからの酒造家です。それにつづいて、宝永六年(一七〇九)までに酒造をはじめている人たち、それ以後はじめた人と、酒造株が増加しています。元禄期はいま申しましたように、酒税が掛かるようになったものですから、過小申告したためガタッと少なくなっています。
ところが、酒税はまもなく、宝永六年に廃止され、それから数年間は酒造統制もなかったのですが、正徳五年(一七一五)になって、元禄十年の酒造高の三分の一造りが発令されたため、元禄十年の三分の一ではいくらなんでも家業が成り立たないと、幕府に愁訴し、何とか伊丹全体の酒造石高を六万石とし、その三分の一の二万石の酒造が認められましたが、このときになりますと、酒株一〇三株のうちに、小西家は薬屋新右衛門・同兵四郎・同又右衛門・与市郎の名がみえ、株数が増加しています。
酒家のなかには発展して行く家もあれば、衰退する家、新規に興ってくる家もあります。そのなかで小西家は近世中期以降次第に大きくなり、伊丹を代表する酒造家に成長するのですが、次に小西家の分家・出店をみておきたいと思います。
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2 小西家の分家
〇伝左衛門家
先に名前の出た伝左衛門ですが、もっとも早い時期に分家をした家です。分家伝左衛門は、初代新右衛門の外孫で、寛文六年(一六六六)の史料に、伝左衛門が新右衛門家の屋敷の一部を借地するにあたって境界線などを取り決めた証文が残っており、推測ですが、この前後に分家したのではないかと思われます。
彼については、元禄十六年(一七〇三)の「下り酒問屋名前附」という史料に名前が残っています。一二六人の江戸の酒問屋が記録されているのですが、そのなかの一人に小西伝左衛門があります。伝左衛門が伊丹で行なっている酒造業は正徳五年に薬屋兵四郎の名前で相続されていることがわかりますが、この跡の消息は不明です。
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〇かぎ屋
一八世紀前半の史料に「かぎ屋」が出てきます。享保期の史料で、よくお正月の行事を一緒に祝ったとか、酒造りの終わったとき両方の酒造人たちが食事を共にしたとか、お漬物を一緒につけたとか、はっきりわかりませんが、非常に近いところにあったようですし、かぎ屋という名前から、同じ敷地のなかにあったのではと思われます。
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〇向小西
「向小西」という、魚屋町の本家の向かいにあったのでこのように呼ばれていたのですが、この家についてははっきりしております。
元禄十三年(一七〇〇)に同じ酒家である大黒屋の酒蔵を借りまして、そこでも小西家が酒を造っていたのですが、これを借り受けた証文が何通か残っています。五年とか一〇年とかで証文の切り替えをしていまして、結局、享保十七年(一七三二)に、酒蔵・酒株・酒造道具一式を買い取っています。
こののち、明和二年(一七六五)、七代新右衛門の弟与市郎(隋念)に、酒株七一九石余とともに譲られ、分家として名前も小西四郎右衛門になり、「水上」という酒が造られていました。
酒造のほかに小西家で「大宝丸」という薬種を扱っていたことは最初に申しましたが、向小西が分家したことを契機に、薬種株もこちらに譲りまして、以来大宝丸は向小西家に受け継がれて、同家の明治の史料にも大宝丸の記録があります。
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〇東出店
もう一つ、東出店があります。これは湊町、いまのJR伊丹駅の周辺ですが、ここに設けられた出店で、元禄十年・十一年に与市郎(後の五代目新右衛門、前出の与市郎とは別)名義で、ここで酒を造ったという記録がありますが、十二年に伊丹に大火事がありまして、この蔵も焼失し、その後しばらく造っていませんでした。
その後、正徳三年(一七一三)に、現在尼崎市に属しますが、曼陀羅寺村という村がありまして、同村の弥兵衛から酒株を買い取り、もう一度そこで酒を造ることになりました。この蔵が宝暦六年(一七五六)、五代新右衛門の娘婿、小西安次郎の名義になります。
このほかに、大坂の廻船問屋小西新六店、江戸の酒問屋小西利右衛門店、同じく小西利作店がありますが、これらについては後でお話したいと思います。
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〇小西家の屋号
小西家の屋号について、古い史料にあらわれる小西家は「薬屋」で、一般的に小西屋を称するのは享保期あたりからですが、この時期は「薬屋」「筒井」「小西屋」と三通りの屋号が併用され、これより以後は「筒井」「小西屋」となり、薬屋を名のることはなくなっています。そして、文政十二年(一八二九)、領主近衛家から復姓免許状が与えられ、以後はもっぱら「小西」姓を名のっています。
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