第十四章 榎(えのき)の樹(き)の下に
〜寺子屋から小学校へ ふるさとの教育史〜
内堀 睦夫

Page1  
Page2  
Page3  
Page4  
Page5  
Page6  
Page7  
Page8  
Page9  
Page10  
   
写真A  
写真B  
写真C  
表1  
表2  
表3  
資料A  
資料B  
資料D  
資料E  
資料F  
資料G  
目次へ  
 
 平尾範介(橋本香坡)が安政四年(一八五七)三月に明倫堂教頭を辞したあと、二代教頭には同じ小竹門の金本摩斎(かなもとまさい)が就任しました。
 金本摩斎は十一年勤めたが明治元年(一八六八)に職を辞したので、その後は明倫堂もふるわず、その年のうちに廃校になってしまいました。
 天保九年から明治元年の三十年間の明倫堂の教育活動は、近代の教育にも大きな影響をあたえました。明倫堂で学んだ人達が、小学校教員として初等教育に活躍したのです。
 例えば、明治五年の学制の公布にともない開業願が提出された伊丹小学校・大塚小学校(伊丹市立神津小学校)の教員履歴には、「伊丹橋本半助(香坡)江従したがヒ」「伊丹金本顕蔵(けんぞう)(摩斎(まさい))江従ヒ」と記されています。


(二)寺子屋
 伊丹地域では、伊丹の寺子屋(表1)ように、江戸時代末期から明治初年にかけて寺子屋が普及していました。
 それは、庶民の間にも子どもの成長過程で年齢に応じて育成していく必要があることと、社会機構のもつ文章主義に要請された社会的能力を持つという二つの要求によって生まれてきたのです。
 寺子屋では、だいたい五・六歳から二・三年あるいは数年通って、読み書きや算術を習ったようです。
(表1)に記してある寺子屋のそれぞれの文書は残っていないので、詳細に知ることができませんが、「兵庫県教育史」から抜粋して次に記します。

1 蓼生園(りょうせいえん) 
 文政元年中村良顕(よしあき)によって開業をした。
 蓼生園とは、良顕の父良臣(よしおみ)在世中の家号である。
 良臣は、伊丹の国学者夏目甕磨呂(なつめみかまろ)に師事し、万葉調の歌をよくした。
 したがって、良顕も父の教えを受け国学をよくし、地方有志に乞われるまま幼童教育に従事した。
 その他詳細不明である。
2 鼓流庵(こりゅうあん)
 川辺郡神津村字岩屋にあり、創立年代は明確ではないが、天保五年の頃であろうと言われている。
 創立者は元村人伊原錦園で、代々教師となり漢学をよくし、この道に貢献(こうけん)した。此故に、伊原氏は旧領主保科弾正(ほしなだんじょう)より特に帯刀(たいとう)を許されたと言われている。
 普及地域は、岩屋を中心とし、付近一里の地に及び本村外より来るものは主として大農の子弟であった。
 生徒数は、毎年五十名を下らなかったと言われている。
 庵には古木の紅葉(もみじ)があり、秋には領主も紅葉狩りに来られたという。
※ 文化十一年(一八一四)か十二年に、木村銭丸ら五人が大坂から伊丹の岩屋村まで紅葉見物にでかけたときの紀行文「岩屋村紅葉紀行」があります。そして、銭丸の画いた窟(いわや)(岩屋)村の図が、伊丹の寺子屋を画いた唯一の貴重な絵として残っています。(ふるさとの教育史  伊丹市立博物館一九八二)
 明治十一年川東小学校(現伊丹市立神津小学校)が設立され、この庵も廃止となった。

 教育の状態
 読書・習字・算盤(そろばん)を教え、常識を養うことを目標とした。
 修業年限は五か年であるが、一定の規則なく良家の子女は長く通学した。
 課業は午前午後にわたり、遠方よりの通学者は弁当を持参した。
 教科は読書で、四書・五経・日本外史・八史略等で、習字は千字文を使用した。五節句および村の祭日を休業とし、当日一般村民を集めて講義した。
 正月お盆には、村民が時節の作物・米・麦等を持参して謝礼を行い、子弟は庵で本膳の馳走になった。
 賞罰(しつけ)は厳格であったという。


【次のページへ】


FujiyamaNET は「山は富士、酒は白雪」でおなじみの
小西酒造株式会社が運営しております。

FujiyamaNETに関するご意見・お問合せ:fujiyama@konishi.co.jp
Copyright(c) 1996-2009 konishi Brewing co.,Ltd.