第二章 台地に刻まれた伊丹の歴史
〜古代の伊丹と伊丹廃寺〜
藤井 直正

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資料3  
資料4  
目次へ  
 
 大鹿の大路さん、これは古いお家ではございますが、そこにお持ちの記録の中に、主池山と書かれていて池との関わりのある寺であったのです。主池山龍レン寺、これでわかるわけですね。主池というのは池の主というか、池の主、それが龍にかかる。池の水は龍がいるっていうのは、昔からの日本人の信仰です。水への信仰ですね。それにかかる。これがこの辺りの池と関わっている。これはもちろん行基さんの昆陽池を拓く話とも、関わってまいります。そして、藤沢先生はこの寺を藤原氏の一族の寺だと解かれて、これは大路さんの記録の中に藤原不比等の名前が出てくるんです。その四男に房前という人がいます。

 さらにこの房前の子供に魚名という人物がいる。このからみをこの大鹿の古い文書には記録している。で、そういう伝承というものは無視してはいけないんだと、先生はいっておられるのですが、字の歴史はそういうことをいってるわけですね。ですから、もう少しまとめていくとすれば、藤原不比等の息子だれだれというのではなくて、この伊丹の土地も藤原氏の関わりのあった荘園であった。藤原氏の一族が、この場所にお寺を建てたと考えておられるのです。そうして、これは記録のなかに出てこないからといって、凡河内氏だと限定する必要はないわけです。あるときはそうであったとしても、郡の大領というものは、これは藤原氏の一族であってもかまわないわけです。瓦はもっと古くまでいくんです。

 最初の瓦は片岡王寺式と申し上げた、飛鳥時代の後期の瓦ですから、わりと古い時期まで逆上ります。そうしますと、七世紀には建っているわけですね。魚名の時代よりもずっと逆上っているわけです。そしたら藤原氏の不比等だったらまあいいかもしれませんが、あるいは不比等のもう一つ上にいってもいいわけです。不比等の親は鎌足です。鎌足が藤原姓をもらいますけれど、一族は中臣氏として残るわけです。中臣氏というのはこの北摂に非常に力をもっておりまして、例えば箕面にある勝尾寺という、最初は藤原氏の二人の兄弟から出てまいります。

 それから総持寺が藤原氏ですね。高槻へいきますと、何と藤原鎌足の墓という阿武山の古墳があります。そうするとね、摂津の山の麓というのは全部藤原氏と関わる土地なんです。で、藤原氏といってしまうのは、鎌足が出てきてからですから、それ以前の中臣氏の勢力というもの考えていったら、藤沢先生が言われるように、伊丹廃寺も藤原氏、中臣氏の一族の誰かが建てたお寺だと。それが不比等に縁ができ不比等であり、それから房前ですか、その次の魚名ですか、そういうふうに伝承されていったって、いいわけですね。そうすると藤原氏、あるいは中臣氏との関わりというものをここで考えることができる。まして伊丹には後に橘御園というのがございます。これはのちのちまで続いて行く橘御園という荘園が出てきます。これが園田という土地の名前につながる、立花というJRの駅に繋がる土地がずっとこれから南のところにあるわけです。そしてもっと時代を下げていきますと、なぜ藤原氏の一族の子孫である近衛家が、この伊丹の町を領有するということにも繋がってくるのです。これは私の分野ではございませんのでこれで置くことにします。
(大手前大学教授)

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