原始・古代の遺跡 資料1

伊丹市の地形と遺跡の分布
   伊丹市は兵庫県の東南部に位置し、北は川西市、南は尼崎市、西は宝塚市と西宮市に、東は猪名川を境にして、大阪府豊中市にそれぞれ接している。
 市域の面積は二九・〇九平方キロ、北摂山地に源を発する猪名川と、丹波高原の水を集めた武庫川の運ぶ土砂の堆積によって形成され、古くからいなのとよばれて来た西摂平野の中心部に位置している。
 地形はおおむね平坦であるが、猪名川の西岸に沿って、洪こう積せき層そうからなる伊丹台地が南北に連っている。この伊丹台地は、地質学の上では伊丹累るい層と伊丹段丘から形づくられていて、礫れき層の真下には、貝殻の化石をふくむ青色の粘土層がひろがっている。
 粘土層が堆積したのは、いまから約三万年前のことで、これを伊丹海進とよんでいるが、そのころ、大阪湾の海岸線は現在よりもずっと北に入り込んでいたのである。
 伊丹海進によって大きな入江ができ、その中に粘土が堆積した。やがてこの海進が退くとともに、まわりの山地から運ばれる砂礫が伊丹礫層を造り、地殻変動によって地面が上昇して伊丹台地が形成されたと考えられている。
 こうして形づくられて来た大地、さらに北に北摂山地、西に六甲山地をひかえ、猪名川と武庫川の流れる西摂平野は、めぐまれた生活環境であり、原始時代から古代・中世を経て現代に至るまで、ここを舞台として歴史が展開した。これを物語るのが遺跡である。
 伊丹市には、現在八三ヵ所の遺跡の存在が知られている(伊丹市教育委員会『埋蔵文化財分布図』平成元年三月)。集落の遺跡、古墳、寺院跡、城館跡、遺物散布地などさまざまであり、時代も縄文・弥生・古墳・奈良・平安・鎌倉・室町・江戸の各時代に及んでいるが、これらの遺跡の調査成果と出土遺物によって、過去から現在にわたる人びとの生活と活動のようすを知ることができる。

縄文・弥生時代の遺跡
   伊丹台地が形成されたのは、考古学でいえば旧石器時代である。西摂の地域では、これまで川西市の加か茂も遺跡、芦屋市の朝日ヵ丘遺跡、最近では芦屋市の打うち出で小こ槌づち遺跡でナイフ形石器が見つかっているが、伊丹市では旧石器時代の遺跡・遺物は未発見である。
 いまから約一万年前ごろから、日本列島全体に狩猟・漁撈・採集を生業とする文化がおこり、紀元前三世紀のころまでつづいた。使われた土器の名をとって縄文時代とよび、六つの時期に区分されている。
 伊丹市の縄文時代遺跡としては、中期の大阪空港A地点遺跡と後期の大阪空港B地点遺跡が知られているが、それに加え、一六次に及ぶ発掘調査が行なわれ、遺跡の状況が具体的にわかる口くち酒ざか井い遺跡がある。
 大阪空港と猪名川との中間、標高七メートルの自然堤防上にある遺跡で、昭和五十三年から六十年にかけて発掘調査が実施され、遺跡の範囲は、猪名川に沿って三〇〇〜四〇〇メートル四方に及ぶことが明らかになった。検出された遺構としては溝と小穴ぐらいであるが、大量の縄文晩期の土器が出土している。とくに凸帯文土器に伴う、籾もみ痕あとのついた浅鉢と石包丁は、西摂地域における農耕の開始が縄文晩期にまでさかのぼることを物語る重要な発見である。
 北九州では、農耕のはじまりが縄文時代後期であることがすでに確認されているが、大阪府茨木市の牟む礼れ遺跡では、縄文晩期の水田跡が検出されている。また、土器については、口酒井遺跡から出土している土器の胎土を見ると「河内の土器」の多いことが注目される。近年、縄文晩期の土器が大量に出土して、編年の基準とされている大阪市平野区の長原遺跡、これも縄文晩期の滋賀里式土器と、各種の石器、大量の土偶が出土している東大阪市の馬場川遺跡の資料等を合わせて検討したい課題である。
 紀元前三世紀のころ、中国大陸から水田耕作に加えて金属器をともなう文化が伝わり、北九州から瀬戸内海・日本海を通じて列島の各地にひろまって行った。これが弥生文化であり、三世紀のころまでを弥生時代とよんでいる。
 猪名川の両岸には数多くの弥生時代遺跡が知られている。左岸の大阪府側には、池田市の宮ノ前遺跡、前期から中期の集落跡と木棺墓が検出された豊中市の勝かつ部べ遺跡、後期の穂ほ積づみ遺跡、さらに古墳時代につづく庄しょう内ない・利と倉くら・上こう津づ島しまの諸遺跡がある。右岸の兵庫県側では、中期から後期につづく川西市の加か茂も遺跡が古くから有名であり、少し下流に行くと、伊丹市域の原田西遺跡、昭和四十年(一九六五)に近畿地方ではじめて木棺墓が発見された尼崎市の田た能のう遺跡がある。
 原田西遺跡は、口酒井遺跡の東方五〇〇メートルにあり、中期から後期にかけて営まれた墓域で、十二基の方形周溝墓が検出された。この他、西桑津遺跡、円形周溝墓が見つかっている森本遺跡等があるが、伊丹市域に限った場合、弥生時代の遺跡は稀薄であり、くわしいことはわかっていない。
 現在では大阪国際空港の敷地となっている伊丹市中村から、昭和十三年(一九三八)の空港建設工事中、銅どう鐸たく一個が出土した。高さ二〇・八センチ、外縁付鈕ちゅう、四区画袈けさ裟だす襷き文もんの中期の銅鐸で、西宮市の辰馬考古資料館の所蔵となっている。

古墳時代の遺跡
  西摂平野では、すでに縄文時代晩期から農耕が開始され、弥生時代になると大規模な水田開発が進められて行った。こうした動きの中で、地域を統合し支配する首長層が現れるようになった。
 三世紀の後半から七世紀の中ごろまで、全国の各地に古墳が築造された。古墳とは、当時の人びとの墳墓であり、古い時期には、地域を統合する首長層に限られたが、時代が進むと共に、古墳を築造することのできる階層は拡大して行った。この時代を古墳時代とよび、前・中・後の三期に区分されている。
 西摂地域、とくに猪名川流域の古墳分布を見ると、右岸と左岸に分かれ、前期の古墳が山丘の頂上に築かれ、中期になると、中流域に、それぞれ群集墳を形づくっていることが特徴的である。
 左岸の大阪府側では、五さ月つき山の中腹に立地する池田市の茶臼山古墳、同娯ご三さん堂どう古墳がもっとも古く、四世紀に築造された前期古墳で、五世紀代になると、千里丘陵西側の縁辺に三六基から成る桜塚古墳群が築造された。現在では、阪急岡町駅の西方に、かろうじて前方後円墳の墳丘をのこす大石塚古墳・小石塚古墳、豊中市役所東方の公園内に所在する大塚古墳と御お獅し子し塚古墳が遺存しているに過ぎない。大塚古墳は、昭和五十八年に豊中市教育委員会による発掘調査が行なわれ、墳丘上につくられた大きな墓壙に東西二つの粘土槨があり、甲冑をはじめとする武器が出土した。御獅子塚古墳も、昭和五十五年の発掘調査で全長五五メートルをはかる周濠をもつ前方後円墳であったことが明らかになった。
 これに相対する右岸では、標高二一六メートルの尾根上に築造された宝塚市の万ばん籟らい山さん古墳がある。全長五四メートルの前方後円墳で、竪たて穴あな式石室を埋葬施設としている。また少しはなれるが武庫川左岸の安あ倉くら古墳は、中国三国時代の呉ごの年号「赤せき烏う七年(二四四)」の紀年銘のある鏡の出土したことで有名である。
 猪名川左岸の桜塚古墳群に相対し、五〜六世紀に築造されたと考えられるのが、伊丹市の南部から尼崎市の北部にかけて、かつて存在し、三〇余基を数えることのできる猪名野古墳群である。
 伊丹市稲野町一丁目、阪急稲野駅の西方二〇〇メートルにある御ご願が塚づか古墳は、この古墳群中わずかにのこる一基で、全長五二メートル、前方部が短く突出するだけの帆立貝式の前方後円墳で、現在では一重しか見られないが、二重の濠のめぐらされていたことが確認されている。
 この御願塚古墳を中心に、満塚・掛塚・塚・温ぬくめ塚とよばれた小さな古墳があり、御願塚の陪ばい冢ちょうとされて来た。明治十二年(一八七九)の地籍図でその位置を確かめることができる。その一つ、温塚古墳は、大手前女子短期大学のキャンパス内、テニスコートのあたりにあった。
 ここから南へ七〇〇メートル、伊丹線の西側に、墓地となっている柏かしわ木ぎ古墳、東洋リノリュウムKK敷地内に黄金塚古墳がある。
 尼崎市に入ると、「塚口」の地名がのこっているが、このあたりが猪名野古墳群の所在地であったことを物語っている。塚口駅の東方、工場に囲まれた墓地内に組合式家形石棺ののこっている御み園その古墳、伊い居ご太た神社境内の伊居太古墳がのこっているに過ぎないが、池田山古墳・園田大塚山古墳は調査記録がのこっている。これらの古墳の遺物で注目されるのは、鉄製工具が豊富に副葬されていることで、『日本書紀』に記され、この地域に居住していたと考えられる新しら羅ぎ系の渡来氏族、そして木工技術にすぐれていた猪い名な部べとのつながりである。園田大塚山古墳のすぐ北、尼崎市猪名寺には、七世紀に創立された猪名寺廃寺もこれに関連する遺跡の一つである。

奈良・平安時代の遺跡
   西暦六四五年の大化の改新によって、律令制度が施行され、中央・地方の行政制度の確立に伴って、国・郡・里(のちの郷)が整えられた。
 摂せっ津つ国は畿内五国の一つであり、一三の郡に分かれていたが、伊丹市域は大半が河かわ辺べ郡、一部が武む庫こう郡と豊て島しま郡にふくまれていた。
 平安時代につくられた『倭わ名みょう類るし聚じゅう抄しょう』(和名抄)を見ると、河辺郡には、雄お田だ・山本・為い奈な・郡ぐう家げ・楊やな津いづ・余あまる部べ・大神・雄おの上かみの八つの郷があり、このうち郡家郷、それに武庫郡に属している児こ屋や郷、豊島郡に属している桑津郷を現在の伊丹市域に比定することができる。
 伊丹市域の各所で、奈良・平安時代の土器が出土したり、土器片の散布が見られるが、『和名抄』の郷の所在地を確定することのできる資料は少なく、調査・研究も進められていない。また、市域には山陽道が通り、これに沿ったところに河辺郡家(郡ぐん衙が)や昆陽駅家こやのうまやのおかれていたことが推定される。
 伊丹市緑ヶ丘には、史跡公園として整備された、国の史跡伊丹廃寺跡がある。付近一帯は「竜りょう蓮れん寺じ」の名がのこり、古くから寺院の遺跡と伝えられて来たが、昭和三十三年(一九五八)、搭の水すい煙えんの一部が発見され、以後昭和四十一年まで長期にわたる発掘調査が甲陽史学会によって行なわれた。
 中門を入って右に金堂、左に搭を配置するいわゆる法隆寺式の伽藍配置で、奈良時代のはじめから鎌倉時代までの瓦が出土しており、その盛衰を知ることができる。
 仏教のひろまりによって地方の豪族によって建立された氏族寺院の一つであるが、その檀越氏族及び創立者として、河辺郡大領に任じされている凡おおし河内氏とする説、平安時代に摂関家領として発展する山本荘・橘御み薗そのにつながる藤原魚うお名な(藤原不ふ比ひ等との孫、藤原房ふさ前さぎの五男)とする二つの説がある。
 伊丹市には、もう一つ古代の仏教史にかかわる遺跡として、奈良時代の高僧行ぎよう基きの足跡がある。和泉国に生まれた行基は、畿内諸国をまわり、池溝の開さく、架橋、布施屋の設置などの社会事業と、民衆への布教活動を進めたが、『行基年譜』には、その足跡がくわしく記録されている。
 摂津国河辺郡においては、天平二年(七三〇)に楊津村に楊津院を、同三年には昆こ陽や施院を山本村にそれぞれ建立している。
 さらにこの二村には、

   昆陽上池 下池 院前池 中布施屋池 長江池
        長一千二百丈 広六尺
   昆陽上溝(
        深四尺
        長一千二百丈 広六尺
   同下池溝(            以上山本里
        深六尺
   昆陽布施屋              昆陽里

のあったことが『行基年譜』に記されている。
 前記の楊津院と昆陽施院は、これらの池溝の開さくの拠点として設けられた仏堂であったと考えられるが、その所在地や規模については不明である。昆陽上池をはじめとする五つの池のうち、上池は、現在は東西約九〇〇メートル、南北約五五〇メートルに及ぶ昆陽池であると考えられるが、他の四池は近世に埋め立てられて現存していない。
 行基による昆陽上池以下五つの池と溝の開さくは、伊丹台地の地形を利用して川の水をせき止め、台地周辺の低地に水を供給するのが目的であったと考えられ、以後各地代の水田経営に大きな役割を果たしたことが想定できる。昆陽施院は、池畔にあったとしたら、先に述べた伊丹廃寺跡が近く、当時衰退していた竜蓮寺が行基の施院として利用されたのかも知れない。
 現在、国道一七一号に沿った伊丹市寺本に楼門の朱塗の鮮やかな昆陽寺がある。境内には多くの堂宇が建って古寺の面影を伝えているが、建物はすべて江戸時代のもので古い時代の屋瓦も出土していない。この位置は旧山陽道に面し、昆陽駅家や布施屋のおかれた場所であり、その跡地に、近世になって創立されたのが現在の昆陽寺であろうというのが通説である。
 最後に、伊丹市鴻こうの池いけの慈じ眼げん寺じに伝えられ、解体修理によって胎内に墨書銘のあることが知られ、建久六年(一一九五)の作であることがわかった釈迦如来坐像が、昆陽施院に伝来した旧仏であろうという私説を記してしめくくりとしたい。
 治承四年(一一八〇)、平重しげ衡ひらの業火によって消失した東大寺は、俊しゅん乗しょう坊ぼう重ちょう源げんによって再建され、大仏殿は建久六年(一一九五)に落慶し盛大な法要が営まれた。重源の伝記は『南無阿弥陀仏作善集』にくわしく記されている。この中に、重源が昆陽寺を修復したことが記録されていて、重源と昆陽寺、伊丹の地とのつながりが知られるのである。
 重源の造寺造仏は、東大寺の再建に伴い、その資財を得るために、伊賀、摂津国渡辺、播磨・備前・備中・周防の五ヵ国にそれぞれ別所を造営している。播磨浄土寺(兵庫県小野市)には、その時に建立された国宝の浄土堂がのこっているが、快慶をはじめとする仏師のほか、多数の人びとが結縁して造仏に当たったことが、『作善集』や遺品によって知ることができる。
 建久六年の黒書銘が見つかった慈眼寺の釈迦如来像は、こうした一連の造仏につながる遺品であり、中世以後、昆陽(昆陽施院)の退転と共に、鴻池の慈眼寺に移されたものと想定するのである。
(藤井直正、大手前女子学園編『伊丹小史』所収)
  昆陽寺の山門(『行基と昆陽寺より』)