第四章 伊丹城の城主 伊丹氏
〜伊丹氏の足跡〜
伊丹 茂

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 伊丹氏の痕跡資料
(枚方市博物館所有《交野町史より》)
 傍示村から帰って数週間後に、私は枚方の図書館に電話を入れました。ひょっとして伊丹氏に関しての資料が枚方市あたりにないだろうかと考えたからでした。案に帰して数日後、枚方市図書館から次のような資料が送られてきました。
 片山長三著「交野町史」と書かれていて、傍示村の伊丹楢三郎から片山氏に、同家に伝わる紋章を示され、(下がり藤の中に加)祖先は加藤家であるという説明を受けた。と書かれていて、ついで、伊丹氏の流れを次のように記しています。


 加藤家は藤原不比等の子、魚名の八代の後胤よしのぶが、加賀の守護代となり、その子しげみつが「加賀の藤原」ということから、加藤姓を名乗った。その子景員(かげかず)は源氏に仕え、伊豆に所領を持ち、その九世の孫景世(かげすけ)は足利尊氏に仕えた。その五代あとの景親は伊丹城主となり、伊丹氏を名乗った。…略尚、天正元年(一五七三年)足利義昭、信長に反抗して、宇治の槙島に伊丹氏、池田氏共に立て籠もる、が敗北して義昭降伏して出家する。伊丹兵庫守親興、淀川を船で下って芥川へ逃れた。芥川は和田是政の居城で、ここへ親興、池田勝正の勢が合流したが、荒木村重がこの城に攻め寄せ、和田が戦死、続いて勝正、そして伊丹親興も共に討ち死にした。村重伊丹に入城し摂津を領した。伊丹の残党は止むなく淀川を渡り、交野に潜伏したが信長の勢力が及んだため、竜王山を通り傍示山に逃れ、ここに住み着いた。
以上が枚方市博物館より寄せられた資料の内文です。

 平成九年、小西酒造主催の伊丹歴史探訪での講演のために、再びこの傍示村を尋ねましたが、残念ながら当日はどなたにもお目にかかれませんでした。仏像は国宝に指定されて、東京、または京都博物館に移されたものと思っていましたが、元の寺のあった場所に、立派な建物が建てられていたので、恐らくその建物の中に収められているものと思われます。機会があればもう一度尋ねたいと思っています。なお、四国徳島の池田市の山間にも、以前、数軒の伊丹姓の家ばかりが集まっている村があったと聞いているので、一度尋ねたいと思っています。おそらく三好勢を頼って逃れた、伊丹氏の子孫の可能性が考えられるのです。

 今回、この文を書くにあたって、福岡県市民図書館、藤野トキヲ氏(旧姓伊丹氏)所有の資料を、参考にさせていただきましたが、また、平成二年、伊丹市制施行五十周年記念展において、提出いただきました資料の中から、伊丹家、黒田家のつながりの一部分を、ここに転載させていただきます。
((黒田長政公御扶侍御刊物(写)))
 天正六年(一五七八年)に荒木村重が、信長に反旗を上げたとき、秀吉の命により長政の父黒田勘兵衛孝高は、村重説得のため有岡城へ出向くが、土牢に閉じ込められた、この時、村重に仕えていた伊丹加藤又左衛門が、勘兵衛に優しく世話をしたことで、後に黒田家に招かれ、その子氏親は、黒田家に仕え四百石を戴き、長政の長男忠之の子守役を勤めた。と、このように記されています。そして黒田藩伊丹家五代目の一乗は、隠居後京都、江戸、その他各地をまわり、伊丹家の伝記を編纂した旨が書かれています。  以上、速記的な文に終わり、申しわけなく思っていますが、今後も資料の発掘、並びに調査、研究を重ねていきたいと思っております。

(伊丹郷土史研究家)

紺糸絨胴丸具足 桃形兜前立付 伊丹親興像
(いずれも、所蔵:藤野トキヲ氏、写真撮影:藤本健八氏、写真提供:福岡市民図書館)
参考資料  
 北河原森本文書所収文書 伊丹市立博物館
 伊丹伝記 福岡市民図書館
 伊丹城跡資料編纂 鈴木充教授
 伊丹中世資料編纂 黒田俊雄教授

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