第四章 伊丹城の城主 伊丹氏
〜伊丹氏の足跡〜
伊丹 茂

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 伊丹城の名の登場
 北河原森本文書所収文書(伊丹市博物館調べ)の中に文和二年(一三五三)、幕府に提出した森本基長軍忠状に、次の事が記されています。
 「文和元年十一月、南朝方の楠木正儀ら軍勢が、尼崎、神崎に押し寄せた際、基長が援軍として馳せ参じたが苦戦をした、そして南朝方が伊丹まで押し寄せ、伊丹河原で合戦をした」と記されています。ついで翌年の軍忠状には、「南朝方が直接伊丹城を攻撃して来たが、辛うじて守りきった」との主旨が書かれており、これが文献上に現れる伊丹城の名の初見ということになります。
 即ちこのようにして見る限りでは、先に少し述べましたが、伊丹城は、南北朝時代以前から幾度かの戦いをこなし得ていた様子を窺い知ることができ、いわゆるこの時期、すでに戦いに耐え得るだけの城構えが、備えられていた、という裏付けにもなるかと思われます。

 例えば、城または城郭と呼ばれるものが、いつ、何処の地から発祥したのか定かではありませんが、凡そ鎌倉時代初期頃までの文献には、城という名はみられず、地方の武士の居住する建物を館(やかた)と呼んでいたようです。
寛文九年伊丹郷町絵図(伊丹城跡外郭)

鎌倉時代後期以降になりますと、各地に武士団が隆起して、それらが自ずから館を城塞化し、山の上等に巨館を設けたりしたのが、城という名の始まりであるとも言われています。そうして互いに田地や水路の確保、勢力拡大の領地争いが絶えなくなると、それらを摂津の国主であった伊丹氏が、こうした争いを治める役割を果たしていた様子が、細川家両家記等に残る伊丹氏の書状で窺い知ることができます。だからといって決めつけるのも不安は残るのですが、そういった時期でもあり、また、伊丹氏の当時の地位等から考え、そして平城であることを考慮するとすれば、最も早い時期に、館を改築、あるいは増築し、城塞化していたものと思われるのです。時期はおそらく一三〇〇年前後と考えてよいのではないかと思われます。

 北河原森本文書所収文書(一一八六年)に加藤右馬允親俊の孫が、伊丹左衛門尉親元を名乗り、その後伊丹姓が引き継がれたと記されており、その後正確な文献として京都東寺百合文書(一三〇九年)に、伊丹四郎左衛門尉好智という名が明記されていて、また、(一三一五年)京都府離宮八幡宮に、六波羅北方探題、摂津の国の守護職を兼ねる伊丹三郎左衛門尉親盛注進状をみることができます。そしてこれが文献上での伊丹氏の初見とされています。これら資料で見る限り伊丹氏の祖は、一一八六年以前よりずっと加藤氏を遡って実在していたことがわかります。
 なお、森本氏は、この頃に伊丹氏から別姓を名乗り、現在の伊丹市神津村字森本に館を構えて、伊丹氏が滅亡するまで行動を共にしていたことが、その後の資料でも知ることができます。


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