伊丹伝記(福岡県博物館所有)
黒田藩(福岡県)元家老伊丹家に残された記述「伊丹伝記」より、系図その他の一部分をここに綴ってみることにします。
伝記記述により、「藤原一乗入道松煙老祖母に問いたり、我家伊丹ヲ以称号トシ、藤原ヲ以姓トスルハ、いかなる故ゾヤ」。祖母答えて言う、「藤原の大祖鎌足公より魚名公に伝え、それより孫、義信、加賀の国の守護代に任し、その子貞正公、初めて藤原氏たるに加賀の加を取り加藤と称したり、此苗裔世に加藤次郎景廉(かげかど)に至る、その末、景親の代より在名を以て伊丹と称する」などのあらましを示され、なお「伊丹は藤原を継ぐ正統にして、家の権与興廃を子孫に知らせんとおもえども、戴星の努めいとまなく…」など語られたりとあります。
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以下伊丹伝記より年代順に系図を探ってみました。しかし上記に示した森本文書系図に、同じ名前が出てこないことに気づくのですが、これはこの時代の武将に、また号をもつのが一つの習慣でもあったようで、例えば系図の景雅は景氏とも名乗っていたようであり、また隠居すると法名を名乗るので、系図の名前が違っていてもいちがいに間違いとはいえない面があります。現にこの場合、年代から見ると最初に伊丹に居住したといわれる景廉という名前は法名と思われ、森本文書に名乗る加藤右馬允親俊ではないかと思われます。そして最初に伊丹氏を名乗ったと記される伊丹伝記の景親は、森本文書に記されている伊丹右馬入道親元と推定するのです。離宮八幡宮に記される三郎左衛門親盛は、年代から考えて親元の孫に相当するように思われます。
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以上、私が古い記述や、その他の記録などの中から年代順に綴ってみたものですが、しかし必ずしも、系図や、氏姓がすべて合致していると考えているわけでなく、今後に残る課題であると思っております。 |
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なお、加藤左衛門尉次郎景廉については、次のような記述が残されています。
「一一八五年」平家追討後、その功績著しく摂津の国主を賜り、伊丹に館を設けて住まいするようになったと記されています。しかし数カ月後に鎌倉の頼朝より京都の義経を討つようにとの命を受けて、京都南部へ兵を進めて義経軍と抗戦することになったようです。ところが優位に戦いを進めていたにも拘らず、景廉、京に攻め入ることをせず、しばらく待機していたが、やがて伊丹へ兵を引き上げたといわれます。そればかりでなく義経が京都を去る時に弁慶を通じて食料の援助を要請され、これを受け入れて食料を送ったと記されているのです。もしこの話が本当であったとしたら、考えられることは、平家追討の頃に義経と景廉の間に深い親交があったのではないかと推察され、義経に対する同情がこのような行為を誘ったのではないかと思われます。そしてこのことが影響したものかどうかわかりませんが、その後百年余りにわたって、加藤氏の消息が文献上から途絶えているのです。 |
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ある資料においては加藤氏は鎌倉幕府評定集七人のうちの一人であって、当時はかなりの権力をもっていたと記されているのですが、もし本当にそれ程の人物であったとすれば、この鎌倉後期の混乱の時代に、何らかの資料に名前ぐらいは見つけ出されてしかるべきかと思われるのですが、この時期の文献には加藤の名前は見いだされないようです。このことは憶測をすれば、義経の事件以後、加藤氏と鎌倉の頼朝との間に何らかの深い亀裂が生じていた可能性が考えられます。そしてその後、水面下にあったこの時期に加藤氏から伊丹氏へと推移したのではなかったかと考えます。いわゆる幕府に名の通る加藤氏が、なぜ名前を変える必要があったのか、いまではその真相やその時期の様相等、結局は資料の不足を補うに至らず、真に残念に思われるのです。
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しかし、やがて伊丹氏を名乗った親元の頃から、加藤、伊丹の名前が再び文献上に浮かび出てきて、その健在ぶりを教えてくれることになります。
即ちこの頃から伊丹氏の名前が列挙として文献に現れ出て、その後何代かにわたっての活躍の姿様や、盛衰の哀切を奏でる様子を、私たちに披露してくれるのですが、ここでは主だったところだけを拾っていきたいと思います。
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