元弘の変起こる
一三三一年=この年後醍醐天皇は、足利尊氏と対立されて京都を追われ、笠置山へ遷幸されます。この間、後醍醐天皇の勅使に従って楠木正成が挙兵、尊氏と抗戦します。この時伊丹氏は、同じ藤原源氏の出自として尊氏に従うことを誓い、楠木勢と対戦することになります。
先の伊丹城の名の登場のところで、すこし触れましたが、この戦記については伊丹伝記にも同じようなことが記されていてたいへん興味が湧くところですが、微妙に違う点もあり、ここにその違いを述べてみたいと思います。楠木正儀の軍勢が泉南地方から大阪方面へ北上してくるのを阻止するために、伊丹氏は森本氏と共に天王寺方面へ出陣しますが、尊氏の援軍が来ず次第に後退して尼崎浜において戦います。が楠木正儀の軍勢、勢いを得て神崎に攻め寄せ、ここでも伊丹氏は敗北、なおも後退して伊丹河原において決戦となります。(伊丹城の名の登場の欄参照)。
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この時の様子を伊丹伝記では、城主大和守景雅が討ち死にしたと伝えています。そしてなおも正儀伊丹城に襲いかかるのですが、この後の記述に森本文書と伊丹伝記に違いが見られます。即ち森本文書では楠木勢を追い払い、辛うじて伊丹城を守ったと文献に記されているようです。ところが伊丹伝記によると、伊丹氏は城を捨てて三田方面へ逃れ、正儀の家来である丹下志貴が伊丹に入城したと伝えています。文献に残る以上森本文書の記述に間違いはないと思われます。が、しかしその後の楠木勢と足利勢の動向をみると、一概にそうとも決めつけられない点が浮かんできます。
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一三三六年、西方に逃れた尊氏は、勢力を盛り返して京都に迫ります。これを正成神戸で迎撃することになりますが、おそらくこの頃摂津の国は楠木勢、または南朝方の勢力下にあったものと考えられ、この時期伊丹氏が伊丹城に存在できたかどうか疑問に思われる節が考えられるのです。その後楠木正成湊川において討ち死にし、楠木勢敗退しますが、伊丹伝記では、この機に乗じて伊丹景雅の弟雅扶、その子の親頼や森本基長等一族郎党結集して楠木勢丹下志貴を伊丹から追放し、伊丹城を奪還したと、伝えています。また伝記によると、この雅扶の子親頼は細川三河守の次男で、伊丹家の養子となり、その子頼員と共に細川家に尽くすと記しています。
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一四六七年=応仁の乱直後の伊丹氏の動静については、詳しいことはわかっていませんが、この時期、細川両家記、大乗院寺社事記等に細川家被官として、また由緒ある武士として代官職を与えられていた伊丹藤原元親、伊丹之親、親時等の名が明記されています。
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