戦国武将伊丹氏の盛衰
鈴木充教授著「伊丹城」によると、一五〇七年=応仁の乱が終わりに近づいた頃、細川家の管領をめぐる細川澄元、細川高国の抗争は畿内に広がり、戦国時代のはしりを招くことになります。そして摂津の主伊丹氏もこれ以後、戦国の嵐に巻き込まれ、攻防相激しさを増していくことになります。
この頃、摂津の国主の地位にあった伊丹城主大和守元扶は、細川澄元、三好之長の四国勢を嫌って、細川高国を擁立、摂津の武士団と呼応して、細川澄元を京都から追放します。勝利を得た高国は自ら管領の地位につきます。しかし、永正八年(一五一一)澄元は、四国より播磨勢を伴い再度京都に攻め上ります。高国は播磨近くまで出て迎撃しますが戦局は澄元側が勝り、高国は不利と見て京都に逃げ帰ります。そのため伊丹城は孤立し、陥落の憂き目を味わうことになります。
|
永正十六年(一五一九)三月、この時の伊丹城の様子を、細川両家記は次のように語っています。「…然るに伊丹城の中に同名但馬守、野間豊前守二人申けるは、当城此数十年の間、諸侍土民以下煩としてこしらえたるその印しかなく、のがれけること口おしさよ、我ら二人は此城にて腹切らんと天守にて腹切りぬ。是又剛なる人かな、と敵味方がんぜぬ人こそなかりけれ。」(群書類縦)と伝えています。ここで注目されていますのが天守という言葉です。およそこれまでの文献には現れてこない文字であることから、伊丹城が日本最初の天守を持つ城ではなかったか、と言われる所以がここにあります。
落城した伊丹城には細川澄元が入ります。
|
近江に逃れていた高国は、今度は佐々木氏の助力を得て、京都に攻め上り、鴨河原の戦いで澄元側の三好之長に大勝し、之長を自殺させます。この機に乗じて城主伊丹大和守国扶、伊丹伊勢守等と結集して、伊丹城に居住する澄元を攻撃します。城は一カ月ばかりもちこたえましたが、食料に困った澄元は、やがて猪名川から船で南下して四国に逃げ帰ったので、国扶はようやく伊丹城に帰城します。四国に逃げ帰った澄元は、翌年夏、四国であえなく病死し、生涯を終えることになります。
|
大永七年(一五二六)(「後鑑」所収御内書録・大永七・四・足利季世記)に、柳本賢治兄弟が、丹波衆と組んで高国に大勝し、その勢いで摂津の池田城など諸城を追い落としたが、伊丹城だけは堅固で、動じる気配もなかった。とまた、大永七年九月には四国の三好元長が、澄元の子細川義晴を擁立して、播州の赤松勢などと呼応しながら摂津に進出し、伊丹城を取り囲みますが堅城なため、二カ月近い攻撃でも落城せず、びくともしなかったので、元長は伊丹城を諦めて、京都へ攻め上った、等が記されています。
|
その後京都周辺では、高国、柳本、三好元長の三勢力が抗争を繰り返していましたが、やがて柳本勢が優勢を誇って、高国、三好を追いやります。その後、亨禄元年(一五二八)柳本と、この頃、三好と友好関係にあった伊丹城に襲いかかります。不意を突かれて伊丹城は再び落城します。そしてこの時、伊丹元扶はじめ伊丹衆三十余人が城外に討ち出て、討ち死にしたと記述されています。無残かな伊丹元扶も、細川家の内乱に巻き込まれて、戦いに明け暮れた生涯でありました。
しかし、翌二九年柳本賢二は、播磨攻撃の際に、何者かによって暗殺されます。この報を聞くと伊丹氏は、一族郎党を集めて三田方面より盛り返し、再び城の奪還に成功します。

|
| 【次のページへ】 |