第五章 有岡城と荒木村重
〜郷土史家の研究から〜
安達 文昭

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 まず最初に、村重が歴史の表舞台へ出てくるのが、元亀四年、一五七三年です。この伊丹のすぐ隣の池田城、大阪府の池田市ですけど、その池田城の家臣だったわけです、村重。で、池田城の家臣から身を起こし、戦国の風雲に乗って頭角を現してくると、その年、元亀四年に信長の陣営に加わるわけです。この年、もう村重はすでに三十九歳でありました。信長はそのとき四十歳、秀吉は三十八歳でした。同年配ですね、こうしてみると。ドラマなんかで見ますと、信長だけ年上で貫録十分というような感じに見受けられますが、だけど実際、史実としては、ほとんど同年配なんですね。で、明智光秀だけは少し年上で、このとき四十六歳ということでした。

 さあ、それで信長の陣営に加わるわけですが、荒木村重はこの摂津一帯をですね、平定をしまして、めざましい活躍をみせるんです。天正二年のことでした。年号は天正になってますが、西暦をみてもらいますと、次の年なんですよね。ですから、元亀四年がイコール天正元年でして、その次の年の天正二年、一五七四年に、村重はなんと早くも、信長の幕僚に抜擢されるのです。先程申し上げましたように、摂津守であります。摂津国は一説にはこの村重の当時は三十七万五千石ともいわれていたようですけどね。戦国大名にのし上がったということですよ。その当時、たしか秀吉は長浜城十二万石じゃなかったでしょうか。それから明智光秀は坂本城五万石だったと思います。ところが、村重はもうケタ違いに抜擢される。しかも要衝の地、摂津国の摂津守です。


 で、村重は有岡城を居城として、それを総構えのお城に改造する一方、その摂津国の周りに強力なネットワーク、支城を築くわけです。高槻城、茨木城、大和田城、これは大阪ですけれど、それから尼崎城、花隈城。花隈城は神戸です。阪急電車の三宮の一つ向こうに花隈という駅がありますが、そこにお城の跡が少し残っているようです。それから三田城、能勢城。そのように強力な支城ネットワークを組むわけです。
 高槻城はキリシタンの高山右近が城主でした。それから尼崎城は村重の嫡男、村次という人が城主でした。その嫡男の正室は明智光秀の娘であります。あまりこれは知られていないことかもしれません。明智光秀の娘として、有名な人は細川ガラシャ夫人、おたまさんでしたか。その細川ガラシャ夫人の姉にあたる人だと思います。その人が荒木村重の嫡男の正室であったというように、村重は摂津一帯に強力なネットワークを張り巡らせてですね、それから政略結婚で、織田家の重臣とも人脈を強めていくわけです。

 そうしてまあ、荒木村重にとっては全盛期がしばらく続くわけです。ときあたかも織田、毛利が激突する石山合戦のさなかですからね。この摂津国のあたり一帯が戦場なんですよ。石山合戦というのは、現在の大阪城の場所が石山本願寺でして、石山本願寺は毛利と手を結んで、信長の勢力に敵対するのです。その大阪城の近辺、摂津国一帯も含めて、信長の軍勢がワーッと周りを取り囲むような情勢だったようです。村重も地元ですしね、信長に従って何回も石山本願寺攻めに出陣するということを繰り返しておりました。

 で、天正六年(一五七八年)、いよいよ問題の天正六年にさしかかってきますが。この年、まだ正月は平和でして、正月、安土城で信長主催の茶会が催されました。新年祝賀と安土城の落成記念を兼ねた茶会が催されたのです。信長の有力な家臣であります秀吉をはじめ、明智光秀とか、その他、柴田勝家だとか、丹羽長秀だとか、滝川一益だとか錚々たる顔ぶれの中にね、荒木村重も得意満面の様子でその茶会に臨んでいたということが、まあ得意満面というのは私が勝手に言ってるわけですけれども、そういうところに座を連ねていたということは、『信長公記』に書いてあるわけです。まさに絶頂期なんですよ。

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