で、天正八年、落城した翌年ですが、村重は、今度は尼崎城、さらには花隈城を経由して毛利方を頼って尾道へ逃れていくわけです。その間に城に残された家来たち、一族、婦女子、それは信長に手ひどい処刑を受けて惨殺、殺されるわけです。
で、信長の虐殺事件としましては、三つあるわけでしてね、歴史上。三つのうちの二つは敵対する勢力なんですよ。一つはあの比叡山延暦寺の焼き打ち、それからもう一つは伊勢長島一向一揆攻め。どちらも宗教がらみの敵対する勢力をたたきつぶすための虐殺だったわけです。信長の三大虐殺事件のうちの、残る一つは、有岡城でした。これだけが異質でしてね、同じ陣営におけるみせしめのための制裁だったんです。有岡城に取り残された荒木村重の一族、それから家臣の女房子供、そういう婦女子が処刑をされるという、これも『信長公記』というのを読むと、生々しく表現された記述がでてきます。
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そういうことを尻目に、村重は一人尾道へ逃げて行ったようです。それでですね、今度はそのあと『信長公記』、天正八年の三月三日の条を見ますと、信長はわざわざ伊丹へ足を運んで荒木村重の総構えの城を見にきておるわけです。敵対した城、自分の進路に立ちふさがった城ではあってもね、村重の築いた有岡城は「一見の価値あり」と思ったのでしょうね。信長という人は非常に合理主義、合理的な人ですから、やっぱりそういう冷静な判断で、普通ならばもう見たくもない敵の城を、わざわざ見にきたのです。企業秘密を暴いて、そのノウハウを自らの城にも導入する、「何でも見てやろう」という気持ちで、わざわざ城を見にきたということであります。信長がわざわざ見にきたという、この事実をもってしても、やはり有岡城がそれだけ先駆的意義のある城、ということを実証しているのじゃないでしょうか。
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それから、天正十年。本能寺の変は六月二日でしたか。本能寺の変で信長は思いがけず亡くなってしまいますね。その後、秀吉が天下人となり、もう出番はないはずの村重にまた出番がやってくるわけです。城を捨て、家臣たち一族その他も捨てて落ちのびた村重がね、もう一度、日の当たる場所へ出てくるんですねえ。それは、信長の死後、天下人となった秀吉が村重を召し出すからなのです。で、禄を与えて、堺に住まわせる。村重は剃髪してですね、道薫というふうに名前を変え、堺に住み、茶の湯をもって大坂城の秀吉につかえるわけです。
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まあ、全盛期の村重は、千利休の七人の高弟、利休七哲の一人といわれた茶の湯の達人でありまして、名物茶道具のコレクターでもあったわけです。このようにして村重は、秀吉につかえるのです。大坂城の黄金の茶室であったかどうかはわかりませんが、堺の茶人が書き記した「茶の湯日記」を見ますと、村重は幾度となく、秀吉と茶席をともにしております。で、村重は天正十四年、五十二歳で死ぬわけです。
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