第五章 有岡城と荒木村重
〜郷土史家の研究から〜
安達 文昭

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 こうして見てきますとね、たしかに村重は反逆者、逃亡者ではあるのでしょうが、では、なぜ、秀吉は後日、信長の死後、村重をこうやって庇護したのでありましょうか。
 それは、秀吉が村重の謀反に同情的だったからではないかと思います。村重が反逆するとき、たしか秀吉は播州三木城を攻めておったと思います。別所長治の拠る三木城、そこを兵糧攻めしていたのではなかったでしょうか。そのとき、秀吉だけずっと西の方へ攻めて行っていたわけです。毛利は目の前ですから、背後に位置する摂津の村重が寝返ると、窮地に追いつめられるような状況の中だったんですよ。
 その当時、信長の中国毛利攻めは、秀吉が総大将でして、村重が副将だったわけです。そういうよしみがあったにせよ、それでも秀吉が後日、村重を召し出して庇護すると、それはやはり謀反に同情的だったのではないかなというふうに思います。現実に、秀吉は村重が謀反を起こすそういう決断をしたとき、驚いて有岡城へ駆けつけ、必死に村重をいさめたようであります。

 ところで、村重が謀反を起こすきっかけは、スピード出世をねたんだ明智光秀が村重を陥れたからだ、というような説もあります。さっきこの明智光秀の娘が村重の息子のところへ嫁いでいると、こう言いましたけどね。そんなもの政略結婚ですから、姻戚関係があろうがなかろうが、そういう関係というのは、水の上に線を引くようなもので、いつなんどきボヤボヤボヤと消え去ってしまうかもわからない。とにかく明智光秀が讒言をしたと、信長にあることないこと告げ口をして、それでやむなく村重が謀反に追い込まれたと、いうような説もあるのです。秀吉はそのようないきさつをことごとく知り尽くしていたのではないでしょうか。

 まあ、いずれにしましても、この荒木村重、すべてが非難されるばかりではなかったのではないかと思います。城造りの鬼才でありましたし、茶の湯の達人でもあったわけです。その自慢の城跡がですね、落城四百年目にして栄光の「国史跡」に指定されたのですが、そのとき荒木村重は草葉の陰で、いったい、どんな顔をしたでありましょうか。
 それから、最後にもう一つ、江戸時代の浮世絵の巨匠、岩佐又兵衛という人、この人は荒木村重の一番下の子供、末っ子であるという説があるようであります。この岩佐又兵衛と書いてるところの年号、生まれた年、一五七八年と書いてますが、これは天正六年にあたります。天正六年。有岡城が落城する一年前であります。

 それで、私、伊丹の図書館で 『川辺郡誌』という史料を調べておりましたときに、岩佐又兵衛、わずか二歳にして、当然数え年ですからね、わずか二歳にして、有岡城をのがれ、乳母に抱かれて本願寺へ隠る、そのようなことが書いてあったと思うのですね。そのときはヘーッと思った程度でしたが、その後、『世界大百科事典』だとかその他のものを見て、やっぱりそんなようなことが書いてあるのです。岩佐又兵衛、荒木村重の子であると。さっき申し上げましたように、一族は処刑されたんですけれどもね、ひそかに乳母に抱かれて本願寺に隠れたと。石山本願寺はこれもさっき申し上げましたように、村重が最後に手を結ぶところですからね。そこへ隠れてその子が成長したのが、岩佐又兵衛であると、まあそんなようなことなのでしょうか。これも非常に興味深いところだと思います。

 で、荒木村重には武人としての側面以外に、文化人的な側面があっただろうと思いますし、あるいはクリエイティブな才能があっただろうと思います。そのようなことが、この江戸時代の浮世絵の巨匠、岩佐又兵衛に受け継がれていたのだとすれば、これも非常に劇的なことだといえましょう。
(伊丹市文化財保存協会理事)

国鉄伊丹駅前(当時)の東に残っていた
外郭濠の痕跡
アリオの建設予定地で発掘された
本丸西側の内堀
”戦国の城”に残る最後の石垣
昭和五十一年(一九七六)の 発掘調査で見つかった本丸の石垣。石組みの中には、宝篋印塔や五輪塔の基壇、一石五輪塔などが無造作に突っ込まれている。

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