第五章 有岡城と荒木村重
〜郷土史家の研究から〜
安達 文昭

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 では、まず有岡城そのものについての、おおまかな歴史および現況、それをまずお話し申し上げたいと思います。この一一一頁に地図を載せております。有岡城は、その前身は伊丹城でございました。伊丹城というものについては別の稿で詳しくお話があると思いますので、重複をさけるために、伊丹城についてはあまり詳しく申し上げませんが、伊丹城はこの地に二百年以上も続いたお城でした。その伊丹氏の中世館町が、まあこの伊丹の町であるわけですが、お城の名前としては、文和二年、一三五三年の文献史料に、初めて「伊丹城」という名前が出てきます。そのさらに五十年前ですね、嘉元元年、一三〇三年ですけれども、その年に「摂津国伊丹村」という、これはもうはっきりした地名としてですね、「摂津国伊丹村」という地名が文献史料に出てくるようです。これは、たしか川西市の多田神社文書という史料だったと思います。ですから、今から七百年ほど前、もうすでに、この地は伊丹氏の館町だったのでしょう。伊丹城があって、その城下に町が形成されておったと、そういう館町だったと思います。

 この伊丹城そのものも難攻不落の攻めにくいお城であったということは、史料なんかでうかがえるわけですが、その後、安土桃山時代になりまして、天正二年、一五七四年ですが、このときに荒木村重が伊丹氏を倒すわけです。伊丹親興という人が伊丹氏の最後の城主、お殿様だったわけですけれど、それを追放してしまって、この伊丹の城を荒木村重が乗っ取るかたちでそこへ入ってくるということなのです。で、そのときに城の名前を「有岡城」と改めました。二百年以上も続いた伊丹城という名前をやめにしてですね、有岡城という名前に改めたのです。まあ、考えてみれば、そうかもしれませんね。伊丹というのはそれまでの前任者の氏姓ですからね、その名前をそのまま引き継ぐのは抵抗があったのでしょう。もともとこの伊丹の有岡、その崖の上あたりはですね、「有り明けが岡」というような呼び方もあったようであります。そういう故事にちなんで、村重は有岡城という名前をつけたということです。

 有岡城は、旧来の伊丹城を大幅にモデルチェンジしまして、大きく強化拡張されたようであります。それは、この伊丹の町、伊丹の町といっても旧伊丹郷町と呼ばれた古い市街地ですが、その町全体をですね、土塁と外堀で囲んだ、総構えの城だったといわれています。
 その村重の有岡城の領域はこの地図に書いてあるとおりで、まず東側の猪名川のあたりからご覧ください。その地図ですね、猪名川。ちょうど城の東側、現在もこれは一級河川でありますが、まあ当時からいわゆる天然の水濠としての役割を果たしただろうと思います。城は高台の上、崖の上にあるわけなのですけれども、その東側にこういう、今は水の量も少なくなっておりますが、もっとたっぷり水の流れた天然の水濠があって、東からの攻撃をさえぎる絶好の堀の役目をしただろうということですね。で、この猪名川とJR伊丹駅との間あたりは、昔は湿地帯だったようでございます。葦などが生い茂る湿地帯で、とても馬などに乗った大軍を展開させられるような立地条件ではなかったということで、非常にいい場所にもともと伊丹城があったものを、荒木村重はこのようなかたちでさらに拡張するわけです。


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