さて、では、有岡城はどのような経過をたどって、栄光の国史跡に指定されたんでしょうか。その指定されるまでの足取りを少し見て行きたいと思います。
有岡城、あるいは伊丹城、それはもうすっかり忘れられた城跡でしてね。なんとなくお城の跡だということは、いろいろ聞いたり見たりして知っておってもですね、どれほどのお城であったのかもわからない。まあ建物も何も残っていないわけですから。で、とにかく忘れられた城跡で、もう壊してしまおうという話になったわけなんですよ。全面壊滅のピンチにさらされたわけですね。ところが、一転して保存が決まって、市指定だとか県指定だとかを飛び越えていきなり国指定の文化財、国の史跡に指定されるという、まさしく三階級特進ともいうべき栄光の座に輝いた、その経過だけ見ましてもね、ずいぶんドラマチックな展開だったと思います。
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それでまず、昭和四十八年といいますから、今から二十四年も前ですが、昭和四十八年(一九七三年)に、伊丹市は国鉄福知山線が複線電化されるということに伴いまして、伊丹駅の建物、それから、前にある崖ですね、お城の跡、そのへんを大幅に改造する計画を立てました。で、駅前広場をつくったり、道路を広げたり、そういう再開発の計画が決定するわけです。そうなりますと、崖は全面的に切り崩されて、お城の跡は全く姿を消すということに、いったんそうなったわけなのですね。もしそのままことが進んでおりましたら、もう今は何もないだろうと、あの場所に。そのとき完全に壊されて、何の変哲もない、だだっぴろい駅前広場ができていたかもしれませんね。
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ところがですね、その次の年の昭和四十九年、その絶体絶命のピンチを救ったのが、一人の大学教授と、それから先程申し上げました古い絵地図でした。昭和四十九年に、広島大学教授の鈴木充先生、その当時は大阪市大の講師をなさっておりましたが、その鈴木先生がですね、「有岡城は伊丹段丘全体を城郭として、外構を備えた非常に珍しい城である」という指摘をなさったわけです。そういうことで、緊急に発掘調査をしようということになりまして、翌年の昭和五十年から発掘調査が始まりました。
そして昭和五十一年(一九七六年)、今から二十一年前ですね。そのときに、前年に続く緊急発掘調査の結果ですね、本丸土塁の内法部分、内側の斜面ですね、そこからL字型に連なる石垣の遺構が出土したと、発見されたと、こういうわけです。で、発見された石垣は長さが東西に一〇メートル、南北六メートルという、たったそれだけのものなのですよ。だけども、これは当然、全体の中のごく一部だろうということであります。それは野面積みの石垣でして、その石垣は、現在残っている戦国時代の城の石垣としては最古であるというように発表がなされました。同時に、本丸の跡からは建物の礎石であるとか、井戸なども見つかりました。
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次のページに写真を載せておりますが、これがちょうど発掘された当時に私が撮影したものでありまして、今、野面積みの石垣と言いましたけどね、なんかお城の石垣といったら、きれいに整えて、隙間なくぴしっと整えたきれいな石垣を連想するのですけれども、有岡城はこの写真のような、こんな様子です。野面積み、自然の石を加工せずに、そのまま乱雑に、一見ですよ、一見乱雑に積みあげたようなこのような感じ、ちょっと粗雑な感じですが、だけど何か古いお城の石垣としての趣、風格はあったと思います。
「あった」と過去形で申し上げましたけれどね、この石垣は現在も保存されているのですが、四百年も土の中にうずもれておった。それがいきなり白日の下にさらされると、風化もしますし、どうしても様変わりをしてきます。そこへもってきて、阪神大震災で、この石垣、かなりの部分が崩れ落ちたんですよ。で、その後、お城専門の石工さんが、あの石垣を積み直したのです。だけども、ちょっとどうも、その隙間が詰まってしまったような、発掘された当時の生々しい石垣とは、少し趣を異にしているんじゃないかなと思います。まあ、最近、ご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが。
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