第五章 有岡城と荒木村重
〜郷土史家の研究から〜
安達 文昭

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 さあ、そういうことで、昭和五十一年に石垣が発掘され、有岡城跡はがぜん注目を集めるに至るわけです。昭和五十二年、石垣が発掘されたその次の年。今度は庭園の跡が見つかるわけです、本丸跡から。その場所は今、カリヨン(時計台)がそびえるあたり。JR伊丹駅の前に「古城橋」と名づけられた陸橋がかかっておりますが、その橋の手前側、こちらから見たら手前側に、カリヨンがそびえております。そのあたり、およびそのすぐ南側、今はタクシー乗り場になっていると思いますが、ロータリーになっているような場所。そこも含めたかなり広い範囲で、庭園跡の遺構が見つかったわけです。地下一メートル、あるいは二メートル、の場所です。そこには池の跡もありました。それから築山が築かれた跡、あるいは庭石だとかね、溝だとか。そういうような庭園跡の遺構が出土したということで、有岡城はますます注目が高まってくるわけです。

 それについて、発掘調査団長の鈴木充先生は、その発掘、石垣が見つかってさらに庭園の跡も見つかったという、このことからですね、「それまでの中世的な居館や山城が、近世的な家城に移行していく過程を示す貴重な遺構である」と、そのような見解を述べておられます。家城というのは、またあとで説明します。
 そのようなことで、この同じ年に、伊丹市は方向転換をするわけです。その開発計画を大幅に修正して、城跡を保存すると、全面的に保存すると、ま、全面的といっても今、残っているのは、本丸跡の一部だけでしてね、庭園の跡は全部壊されて、ちょっとあんまり、それほど大きく保存されたという感じでもないんでしょうけど。とにかく保存をして、国の文化財指定を受けたいと、つまり、国の史跡に指定されるよう申請すると、いうような方向に転換してきたわけです。

 それで、昭和五十四年、今から十八年前です。一九七九年、有岡城跡は念願かなって、国の史跡に指定されたというわけです。その指定範囲は、先程も申し上げましたように、本丸跡と、出城跡だった猪名野神社ですね。それから、城の西側に続く延長二一二二メートルに及ぶ外構跡、外堀の跡であります。こうして、個別に点在している、点と線の国史跡が誕生したんですねえ。全国的にも、こういうケースは初めてだそうであります。
 私は物見高いヤジ馬の一人として、このような経過をつぶさに見守ってまいったわけですが、とにかくこの石垣発見に触発されまして、有岡城、荒木村重その他、伊丹の郷土史を研究するように、そういう方向へ入ってきたわけであります。

 有岡城本丸跡はだいたい二二〇メートル四方、方二町といわれています。二二〇メートル四方なら、小さいといえば小さいかもしれませんが、まあ、そこそこの広さともいえると思うのですよ。ところが、明治二十六年、今から百年以上も前ですが、明治二十六年(一八九三年)に鉄道が開通したときに、東半分はその時点でもう失われているわけであります。本丸跡が壊され、その場所に伊丹駅が造られたのですね。たとえば今JR伊丹から大阪方面へ向かいますと、ちょっと動き出してすぐ、何かもう切り断ったような崖の下を走るところがあるのです。あれなんか自然の崖ではなくて、鉄道を通すためにその時点で崖を切り崩した、垂直にガチッと切り取ったようなね、そういうところも今、地形として残っておりますしね。そういうわけで、鉄道が開通するときに東半分は失われてしまったのです。西側の半分がかろうじてわずかながら面影をとどめておりますが、そのなかに本丸跡の一部と石垣のある部分が保存されておるというのは、非常に喜ばしい限りだと思います。

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