第五章 有岡城と荒木村重
〜郷土史家の研究から〜
安達 文昭

Page1  
Page2  
Page3  
Page4  
Page5  
Page6  
Page7  
Page8  
Page9  
Page10  
Page11  
Page12  
Page13  
Page14  
   
目次へ  
 
 では、次に、その有岡城は、どのような理由で国の史跡に指定されたんでしょうか。有岡城のもつ歴史的意義、城郭史に果たした役割について、触れてみたいと思います。
 先程も申しましたようにこの有岡城、伊丹城、もう本当に忘れられた城跡、実態がわからない、何も残っていない、建物はもちろんのことですね、城だということを証明する物的証拠も残っていない、まあそんなお城の跡だった。そのために、鬼貫という伊丹生まれの俳聖ですね。松尾芭蕉と並ぶほどの、元禄俳壇のスーパースターであったという上島鬼貫。その人がこういう俳句を詠んでいるのです。「古城や茨くろなる蟋蟀(きりぎりす)」。蟋蟀というのは当時コオロギのことですから、今のキリギリスではありません。で、鬼貫は江戸時代前期の人ですからね、もうまあ江戸時代の中期ごろに、こう詠んでいるわけです。この俳句の詞書にですね、「有岡の昔をあハれにおほへて」とあります。歴史的仮名づかいで、「おほへて」って書いてますけど。このような詞書をつけて俳句を詠んでいます。

 この句彫りを刻んだ句碑がですね、本丸跡の一角にある荒村寺というお寺、荒木村重を略したように荒・村・寺です。これは荒木村重の菩提を弔うために、後世になって建てられたお寺ですけれども、そのお寺の境内に、この鬼貫の句を刻んだ句碑が建っております。とにかく、この江戸時代の中期ごろにね、すでにこのように「古城」であるということと、それから野いばらがバーッと密生していて、そこにコオロギがたくさん戯れておるといいますか、まさにこの俳句からもね、城跡は相当、荒れ果てていたのではないかということが推察されるんではないでしょうか。

 その忘れられた城跡が、とにかく国史跡に指定されたのです。昭和五十四年(一九七九年)に史跡に指定されたのですけど、それは先程も申しましたように「有岡城跡」という名称で国の史跡に指定されたわけです。なぜ、「伊丹城」ではなく「有岡城」なのでしょうか。それは荒木村重の時代のお城の名前が有岡城であったと、その時代に画期的な城構えに改造されたからだ、というわけであります。その荒木村重の戦国の城は、足掛け六年、わずか六年なんですね。天正二年から七年までという短い命でありましたけれど。この荒木村重のこの城こそ、有岡城こそですね、史上初めての総構えの城であると、我が国の城郭史を塗り替えた、まさに衝撃的なデビューだったのではないでしょうか。

 ところで、総構えの城というのはですね、武士の居城と、その外側に経営する城下町、それらを一体化して、町ぐるみを包み込んでですね、その外側に外堀、城壁、そういうもので外周をかためた、そういう城構え、そういう城郭構造のことであります。そのような縄張りを持つ城としては、信長の安土城、それから秀吉の聚楽第、大坂城、そういうものが有名でありますが、安土城は一五七七年に御構えというものが完成しておりまして、聚楽第は、京都ですけれど、一五九一年、御土居が完成。大坂城は一五九八年、総構堀、総構えの堀ですが、それが完成しているということです。

 ところが、荒木村重はそれらに先駆けて天正二年(一五七四年)に、小規模ではありますけど、この伊丹の地にまさしく前代未聞の総構えを出現させていたというわけであります。それから二年後の天正四年、キリシタンの宣教師、ルイス・フロイスという人が伊丹へやってきております。荒木村重の家来に高山右近という、荒木村重より断然、高山右近の方が有名なのですけれど、この高山右近のお父さんであるダリオ高山飛騨守に伴われてルイス・フロイスが伊丹にやってきて、有岡城に一泊するわけです。そのときの様子を、ルイス・フロイスは有岡城のことを「甚だ壮大にして見事なる城」というふうに絶賛をしております。

【次のページへ】


FujiyamaNET は「山は富士、酒は白雪」でおなじみの
小西酒造株式会社が運営しております。

FujiyamaNETに関するご意見・お問合せ:fujiyama@konishi.co.jp
Copyright(c) 1996-2009 konishi Brewing co.,Ltd.