それから、『信長公記』という、これは信長の右筆、まあ書記官ですね、その太田和泉守牛一という人が書き記した一等史料と言われております。信長の行動を日記風にずっと一代記として書き綴った貴重な史料であります。信長や戦国時代を研究するには欠かせない一等史料である『信長公記』は、天正七年の有岡城が落城する場面で、その城の中の様子をこのように述べています。「城と町との間に侍町あり。これをば火をかけ裸城になされたり」と、こんなふうな表現で記録されております。城と町との間に侍町。つまり、本丸と町人の住む城下町との間に侍屋敷、侍町があった。そこへ火をかけた。で、バーッと焼き払って裸城にしてしまったと、こう信長側の書記官であるその人が生々しく証言をしていると、こういうわけですね。それにしましても、お城の中に城下町があるというのは、どうもやっぱり奇妙な感じがします。
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で、ちなみに、清酒「白雪」あるいはこのブルワリービレッジ長寿蔵で有名な小西酒造さんはまもなく創業四百五十年を迎えられるわけですが、四百五十年前といったら、まだ有岡城ではないのですよ。伊丹城の時代なんですよね。その伊丹城の城下町で、営業しておられたということで、まさに小西酒造さんは伊丹の歴史そのものだということもいえるのではないでしょうか。
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さて、城下町をすっぽりと包み込んだ総構え。その有岡城は東の方の境目に崖があって、高さがまあ一〇メートル前後の段丘崖になっています。西側が土塁と外堀。で、その周囲に五つの出城を築いて防備を固めたというわけであります。出城があったのは先程もちょっと触れましたが、一番北の端、猪名野神社、そこには野宮砦というもの、それから一番南の端、これは鵯塚砦、それから西の防禦線にあたる文化会館のあたり、そこには昆陽口砦、それから伊丹第一ホテルの付近、墨染寺のあたり、ここに上臈塚砦、もう一つは猪名川の西側、お城側の岸ですね、そこに岸砦、というものがあったようです。これらは『信長公記』という史料にも名前がでてきます。『信長公記』にでてくるのは、鵯塚砦、それから上臈塚砦、岸砦、この三つです。
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今もあるヒヨドリ塚は私有地でしてね、個人の所有地ですから、勝手に入ったらおこられます。そこは八メートルぐらいの高さ、古墳の跡だといわれていますが、古い時代そのままに、四百年前にタイムスリップしたようなイメージの、いかにも砦の跡だなというのが残っているんですけど、ここは無断立入禁止なんですよ。それから猪名野神社、これはオープンに誰でも入っていけるわけですけれども、そこの境内には、はっきり城の土塁だとわかるものが残っております。
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それと、今年二月、伊丹第一ホテルの南側の発掘調査現場から、古い酒蔵の遺構がでてまいりました。酒蔵のカマドだとかね、搾り場だとか井戸とか。そういう埋蔵文化財が見つかったのですけどね。それと同じ場所から、堀の跡がでてきたんですよ。出城の堀跡です。伊丹第一ホテル、墨染寺のあたりも古墳だったようでして、その古墳の高まりを利用した上臈塚砦、という砦があったのですが、そこに設けられておった堀が地面を掘ると出てくる…。これまた、非常にドラマチックといいますか、現実に次々と実証されていくのは、非常に興味深いことだと思います。
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それから、JR伊丹駅前の本丸跡には、石垣が保存されています。それは荒木村重が築いたものに間違いないでしょう。有岡城は落城したあと再興されずに廃城となったようですから、その石垣は天正二年ごろ、一五七四年ごろ村重が築いたもので、安土城の石垣より古いというわけです。これは非常に貴重な遺構ということがいえると思います。一方ですね、庭園跡の遺構は残念ながら姿を消してしまいました。築山に池を配した本格的な庭園があったことは、これは間違いのない事実です。私も発掘しているところをよくカメラぶらさげて見に行きましたけど、間違いなくやっぱり池の跡、築山、庭石、溝、そういうものが現実にでてきたわけですから。発掘調査報告書には、記録保存という形では載ってると思いますけれど、実体そのものは惜しくも姿を消してしまっているということです。
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それで、先程ちょっと家城ということを言いましたね。村重の有岡城は家城、つまり軍事基地とですね、それから庭園付きの居館、それらを同じ場所に設けた、いわゆる和戦両用の城、そういう家城のはしり、でもあったようであります。それ以前は、戦争のときは山のてっぺんに駆け登ると、山城ですよね。山のてっぺんに城を築く。で、また平和がもどってくると、山のふもとに降りてきてのどかに平和に暮らすと、いうように上と下、別々の場所に生活拠点があったと、そういうのが普通だったようです。
ところが、そうした常識を打ち破って、荒木村重は伊丹の地に戦いのときには即籠城できる、総構えの城を出現させたんです。土塁や石垣でバーッとバリケードを張り巡らしたですね、強固な構えの城、その中にこんどは優雅な庭園があって、村重は茶人ですので、おそらく茶室もあったでしょうね。そういうところ、まさに和戦両用の城であったわけです。
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