第六章 鬼貫と伊丹風俳諧
〜伊丹の文芸活動〜
瀬川 照子

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 柿衞という名前は、この文人墨客らが愛した柿を衞るというところから名付けられています。結局柿を衞るということは、伊丹の文化を衞るということだと私は心得ています。話をもどしまして、岡田糠人は弘化から慶応のころ(一八四三〜一八六五)、鬼貫の句碑建立のために尽力しています。猪名野神社とか墨染寺、荒村寺にもありますね。幕末期に、鬼貫顕彰の一役を担った方です。このように、岡田家の歴史をひもとくことは、そのまま伊丹俳壇の歴史を見ることにもなります。そのような過程で、蓄積されました俳諧資料や漢詩・絵画作品に加え、俳文学者の二十二代当主柿衞翁の収集によって、日本の三大俳諧コレクションに成長したわけです。とくに昭和十六年から二十六年にかけて、ちょうど戦中戦後にかけて、日本中が混乱したとき、さまざまコレクションが市場にでました。

 海外に流れた書画もありました。日本中の文化財が生活のために危機に面しました。そのとき柿衞翁は酒造家としての財力をフルに活用し、俳諧資料を収集いたしました。これは実話ですが、昭和二十年三月、大阪の空襲が激しかった時、大阪の名家水落家から譲り受けた「来山屏風」等を、伊丹に運ぶ手段がなくて困っていた時、ある人が、酒一升を礼としていただけるならといって、戦火くすぶるなか、肩引の大八車で屏風を運んだと記録されております。また柿衞は、明日は火に会い灰となってしまうかもしれないような資料ですが、せめて一日でもいいから枕元にこの資料をおいて、こころゆくまで鑑賞したいと言われたということです。このような過程を経て伊丹の地に、充実した俳諧資料館ができたわけです。それも土台となるのは、伊丹の旦那衆の文化や風流をこよなく愛する江戸時代からの伝統が、脈々と流れていたからかと思います。


 それでは本論に入りまして、鬼貫と伊丹の俳諧について話させていただきます。上島鬼貫は皆さんよくご存じだと思います。「東の芭蕉、西の鬼貫」と、よく芭蕉と並び称せられております。江戸時代の上方を代表する俳人の一人です。そして伊丹で生まれ育ちました。鬼貫がどうして俳聖鬼貫になったかということは、鬼貫個人の資質だけでなく、伊丹の土地柄をみますとだいたいそれが頷けますので、まず伊丹の土地柄について説明させていただきます。今までの講座で、荒木村重まで話が進んでいると思いますので、歴史的なことは皆さんの方がよくご存じのことと思います。天承七年、荒木村重の有岡城が織田信長によって落とされます。宣教師ルイス・フロイスの記録によると、有岡城は天守閣のある荘厳な城であったようです。この城の落城後、伊丹には城は再建されませんでした。徳川の時代になっても、伊丹は、天領ということで、大名をおかず武士のいない町でした。それが町人文化が栄えた一つの要因だと思います。


 村重について加えますと、信長は非常に残虐な滅ぼし方をしていますね。村重は尼崎に落ちのびましたが、残された女房子供を始め一族三十六名は京の六条河原で処刑され、六百名に近い家臣は尼崎城に近い七ツ松で殺されています。伊丹墨染寺の鬼貫親子墓の隣に、村重一族の供養塔女郎塚がございます。そんなわけで、伊丹は城下町から町人の町酒の町に変貌を遂げました。しばらくは幕府直轄領で、鬼貫の生まれた年の寛文元年には近衛領となりました。近衛さんは京におりまして直接伊丹の町を管理していたわけではなく、近衛家より惣宿老の資格を許された有力酒造家が、町の政治を担当しました。また、近衛家は酒造家の発展に尽力しましたので、急速に伊丹の経済は伸びました。それで、近衛家には酒家の旦那衆から巨額の上納金が入るわけです。ですから、鬼貫が生まれた頃、伊丹の町は非常な勢いで経済成長を遂げたわけです。

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