伊丹酒は江戸送りの極上酒として知られ、将軍にお出しする御膳酒として評判を得ていました。ですから伊丹の酒造家は財力を誇り、また、大名貸などもしておりました。大名にお金を貸し、その返済は、大名が持っている米をもって返済されました。それでもってさらに酒家が繁盛するわけです。鬼貫が活躍していた頃は、七十軒ほどの酒家が軒を並べていたようです。ちょうど猪名野神社から宮の前通り一帯、酒家を始め、米屋・桶屋・竹屋など、また職人相手の飯屋などが軒を並べ、繁盛を極めていました。経済力のある酒家の旦那衆は、学芸や風流遊びに非常に力を入れ、京・大坂より一流の先生を招いて学芸に打ち込みました。ですから伊丹の俳諧文芸も、酒家の旦那衆の風流遊びから始まったわけです。当時の俳人についての記録は『在岡逸士伝』という享保八年に書かれた書物に詳しく見ることができます。森本百丸という鬼貫と同時代の俳人による記録で、鬼貫の親戚に当たる上島青人が跋文をしたためております。
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出版されたものではなく、写本で今に伝わるわけですから複数あるものではありません。三百五十年を経て、幾度かの戦火をくぐり抜け今に伝わるこの一冊のお蔭で、わたしたちは伊丹の町がいかに俳人の町であったかを理解することができます。本書には七十七名の俳人が紹介されておりますが、当時七十軒の酒家があったことを思うと、酒家の旦那衆はほとんど俳諧を楽しんでいたようです。まさしく俳諧の町を形成していたと言えます。なぜ、旦那衆は俳諧に飛びついたかと申しますと、本来の伝統的な文芸は、和歌なのですが、和歌は貴族の文芸で、幅広い古典の教養や歌枕の知識が必要とされますが、俳諧は和歌連歌から発生した新興文芸ですが、滑稽というかユーモアに重点が置かれたもので、和歌の雅語に対し、俗語を読み込むことを旨とします。いいかえれば庶民感覚で庶民生活を面白みをもって、五・七・五の中に読み込むことができる庶民文芸であったわけです。
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資料では、小西馬桜という伊丹俳人を紹介していますが、馬桜は小西酒造のゆかりの人です。面白い俳号なんですが、鞍馬天狗をもじって名付けられたと言われています。ちなみに鬼貫は紀貫之からで、青人は山部赤人をもじった俳号だと言われます。和歌の雅びの世界に対し、俗の滑稽としての俳諧を強く意識した俳号のつけ方だと思います。さて『在岡逸士伝』にみる馬桜の略伝ですが、それによると小西長宅の仲子、真ん中の子供で、小さいときから琴と横笛を愛し、笛は一噌というお家元から、琴は岡島の風を学んでいます。蹴鞠は吉田流で、俳諧は也雲軒池田宗旦に学んだと記されています。幼いときから一流の風流遊びを、いかに手広くやっていたかを伺い知ることができます。『在岡逸士伝』には、この馬桜と負けず劣らずの風流人の略歴が、七十七名続きます。ただいま文庫に展示されておりますので、お帰りの際寄っていただけたら幸いです。
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鬼貫は寛文元年(一六六一)、そんな伊丹の酒造家油屋の上島清兵衛の三男として生まれております。現在住友銀行があります所が油屋の跡、鬼貫生誕の地ということで、「にょっぽりと秋の空なる富士の山」という鬼貫代表句の句碑が建てられております。
そこで鬼貫がどういうような文学環境にいたかということを、鬼貫が書きました『仏兄久留万』という著書からピックアップしましたので、読ませていただきます。
「……伊丹という所に胞衣をときぬ爰はいにしへより連俳の好き人おほくおのづから耳に心にうつりて八つになりけるとし こいこいといへど蛍がとんでいく これを我わざごと歌の初として…略」と書いておりますように、この伊丹という地は昔から連歌・俳諧の好きな人が多かった。ですから鬼貫が生まれた時点から、家族の人たちは俳諧をたしなんでいるわけです。身近な人が俳諧を楽しんでいる姿が、その耳に心にうつりて、勉強しようと思わなくても句が自然と口からついて出てきて、それで八歳のときに「こいこいといへど蛍がとんでいく」という句を詠んだと言っております。鬼貫の場合、成長の過程で身近いところに俳諧があったわけです。
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それから、「十三歳の頃、松江の翁を招きて流れをくまんといふより明けくれこの道にこころを尽くしぬ」と書いております。この松江の翁は京都の松江重頼という高名な俳人なんですけれども、この方はトップクラスの俳人です。その人に十三歳、ですから今の中学生ぐらいのときから一流の俳諧の先生に学んだわけです。それから「このころ又世に匂える梅の翁をはじめ名だたる俳諧師也雲の扉を扣きて来れる時々座をならべずといふ事なし」と書いておりますが、この梅の翁といいますのは、当時流行の俳諧宗匠、大阪の西山宗因という先生なんですけれども、この方は当時大流行した談林派の一番トップの人ですね。当時の流行俳人です。ですから、古典的な基礎を学んだ京の俳人、また大阪の流行俳人、どちらにも学んでいるんです。
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その人たちが、也雲の扉を扣きと書いてありますが、この也雲の扉というのは也雲軒という俳諧塾が伊丹の地にあったわけです。これはちょうど、いま私たちが勉強していますこの辺にあったと思われます。住所でいいますと、井筒町金剛院末寺北坊是則院と、古文書の地図を見ると書いてあります。ちょうどこの三軒寺のあたりですね。この辺に也雲軒という俳諧塾があって、これが伊丹の俳人たちのサロンをなしていたのです。そこに有名な俳人たちが立ち寄るわけですが、そうすると、伊丹の酒家の旦那衆は、あの有名な俳人が来たのでさあ寄りましょうということで、必ず俳諧の席をもうけて地雲軒に寄るわけです。鬼貫も若い時からこのような機会には、必ずその座に参加していたということです。すごく幸いな環境ですよね。当時、地方の俳人たちは京や大阪の高名な俳人の俳席に参加することを夢見ているのですが、鬼貫の場合は有名な人が訪れましたら、俳諧のサロンがある也雲軒に必ず参加することができました。そして若い時より一流の俳諧師たちに俳諧を学ぶことができております。ですから、鬼貫は十四歳から二十三歳まで、この也雲軒という俳諧塾を中心に塾頭池田宗旦から俳諧を学び、宗旦編の俳書に名を連ねております。
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