第六章 鬼貫と伊丹風俳諧
〜伊丹の文芸活動〜
瀬川 照子

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 也雲軒という俳諧塾は、いったいどういうものであったかということをご説明いたします。也雲軒の俳諧塾イコール伊丹風俳諧ということなんですね。よく鬼貫の俳諧が伊丹風俳諧と言われますが、それはまちがいです。この也雲軒でなされていた俳諧が伊丹風俳諧、その伊丹風俳諧を土台として、鬼貫がそこから成長するわけです。その也雲軒の俳諧塾でどのような俳諧の勉強をされていたかといいますと、この也雲軒の塾頭池田宗旦は、さきほどの松江の翁松江重頼の門人で、京の有名な俳人の一人でした。松江重頼と一緒に延宝二年に伊丹の地を訪れました。その時以来伊丹の地にひかれまして、そのまま京に帰ることなく、二十年間伊丹の地に腰を据えて俳諧の先生をしました。なぜ伊丹の地にひかれたかと言いますと、酒です。お酒と財力ですね。伊丹の人々が非常に手厚く、宗旦をもてなしたということです。宗旦はお酒の杯を手から離すことなく俳諧を楽しんだと言われております。この先生が伊丹の旦那衆に俳諧を教えることになったのですが、この宗旦という人は豪放磊落な性格で、元気な句を作る方だったのです。

 宗旦の代表的な句、「踏れけり花口おしか今一度咲け」は、白楽天の「花を惜しんでは同じく惜しむ少年の春」を踏まえた発句です。落花を惜しむ気持をちょっと喧嘩腰っていうんですか、花が踏まれて残念、口惜しいと思うんだったらもう一度、花よ咲いてみなさいという意味と、もう一度酒、ドリンクのお酒ですね、咲けと酒をかけたわけです。このような句調が伊丹風俳諧のもとになっています。ですから、伊丹の俳人たちは、人が作らないようなおもしろい句を作ればよい、それから全く人が想像しなかったような奇抜な発想の、あっと人に言わせるような句を作ってやろうとしたのです。それが伊丹風俳諧の基本になります。ですから、伊丹風といいますとね、鬼貫も自分の『独言』という代表的な著書で書いているのですけれども、「句に様々な異形をつくし」、奇抜な発想を楽しんだのが伊丹風俳諧ということです。ですから、笑いというのが中心になっております。風雅とか奥深いとかいうものじゃなかったわけです。俳諧の席では人をあっといわせるような句を作ろう、それが伊丹風俳諧の発想のテーマです。

 これは宗旦の作風に関わるわけですが、先生がそうだとその先生に気に入っていただかなければいけませんので、競って人々はそういう句を作ります。それが伊丹風という句ですね。それではまた小西家に敬意を表しまして、馬桜の句でご紹介いたします。柿衞文庫所蔵の小西馬桜の短冊です。随分元気な字が書いてあると思いますが、この句は、「牛の角や田螺(たにし)のからの置所」、これ意味わかりますか? これは牛の角というのはクルクルとまわっていますよね。田螺も円形ですので牛の角に田螺のからをひっかけたら、ちょうどいい具合にひっかかるんじゃないかという句なのです。こんなことは誰も発想しませんね。だからだれも発想しないような奇抜な句を作る。それが伊丹風俳諧の特徴です。

 この字もそうですけれども、みんな競ってこういう伊丹風の俳諧を作っていったわけなのです。文庫に残っております上島青人の作品ですが、「寝てひえてしなずハ見たし雪のうへ」、雪の上で寝たら、冷えて死んでしまうけれども、もし死ななければ雪の上で寝てみたいという句ですね。こういう元気な句、人が月を愛でる花を愛でるという風流な句ではなく、人があまり詠まないような奇抜な発想の、そしてユーモアのよくきいた句を伊丹の酒家の旦那衆は楽しんでいたわけです。だから、ちょっと想像しますと、そこに大きな笑いがあったと思うんですよね。お酒を片手に非常にダイナミックな笑いがあったと思います。これは伊丹の町の特徴だと思いますね。それで、当時の人たちは伊丹風といいますと、あの奇抜な句であると思うわけです。ですから伊丹の俳人が旅行に行きますとね、お願いだから伊丹風をよんでくださいと言われるのです。「伊丹風というのを所望されて」という前書きのある句も残っています。伊丹風は奇抜な句。ですからみんな期待するわけですよ。どんな句が出てくるか想像ができないような句ですよね。そういう句を伊丹の俳人たちは随分楽しんでいたようです。

 しかし、その伊丹以外の地では、伊丹風の俳諧をどう評価していたかというと、「伊丹の狂乱体」と酷評をしていました。伊丹風俳諧というのは、これは詩ではないというような評価もあったわけですけれども、伊丹の俳人たちは、その悪評などさらさら気にしないで、自分たちの俳諧を自由に大胆に楽しんでいたようです。鬼貫も二十四歳まで、伊丹の俳人仲間と同じように伊丹風の俳諧を作っていました。しかし鬼貫はやっぱり本質的に詩人であったのでしょう。それで遊戯性ばかりが強調される伊丹風俳諧以外にも俳諧があるのではないかということを考えてなやみます。これが鬼貫の疑問なのですけれど、人の意表をつくような句作方法以外に、もっと深い俳諧というものはないものであろうかということを、考えはじめます。これが鬼貫が鬼貫になる一つのきっかけになるわけです。

 鬼貫の言を借りるならば、二十五歳の時に悟りを開いたと言われますから、その前の二・三年、鬼貫は悩みつづけたようです。ですから、本来の鬼貫の句を作りだす前に、土台になりましたのが、この伊丹風俳諧ということです。鬼貫は伊丹風俳諧から脱却をしようと試みます。鬼貫という人は、どうも記録魔であったらしく、自分の句とか、俳諧に対する考えなどを面々と書き連ねた書物を残しておりますので、私たちはそこから忠実に鬼貫の考えというものを知ることができます。その文献にそって鬼貫の言葉をまた引用させていただきます。鬼貫が五十八歳の時に書きました『独ごと』という著書があるのですね。これは芭蕉の『奥の細道』に匹敵するほど当時ベストセラーになった本です。なぜベストセラーになったことがわかるかというと、柿衞文庫に五種類の『独ごと』の本が収蔵されています。何度も再版されているのですね。どんどんと版を重ねて出版されています。また数種の写本も伝わります。ですからこれは非常によく読まれた本であるということが私たちにも理解することができます。この『独ごと』の中に鬼貫が書いておりますので、そこから引用をさせていただきます。

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