第六章 鬼貫と伊丹風俳諧
〜伊丹の文芸活動〜
瀬川 照子

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 第二として、「新しく作りたる句ハやがてふるくなるべし 只とこしなへに古くもならず又あたらしくもならぬをこそ能句とハいひ侍るべくや」って言っております。ですから、その時は、新しい発想の句だと思っても、時代がすぎると古くなってしまうけれども、もうずっと古くもならず、その場ではパッとおもしろくない句であっても、古くもならずまた新しくもならず、時代をこえてずっと通用する句がいい句ではないかということです。これは芭蕉も言っております。不易の句というのですけれども、そういう句が大事である。ですから伊丹風のような句は、当時、今で言いますと流行を追った句ですから、その時は面白いかもしれませんが、小西馬桜さんが言った、牛の角は田螺のからの置所というのはいま聞いても、すぐに理解して笑えませんね。ですから、永遠に新しくもなく古くもないという句が良い句である。時代を越えて人々の心に共感するような普遍的な句ということですね。では、普遍的な句というのはどうしたら作れるかというと、「作意にのミかかはりていふ句とまことを深く案じ入て一句のすがた詞にかかハらぬとの差別なるべし」、ですから、作意だけにかかるか、まことの心を深く入れて作るかというところのこの差で普遍的な句か、それか忘れられてしまう句かという、ここに区別があると言っています。永遠に通用する句を作るには、心というのが非常に大事であると言っております。それからもう一つ難しいことを言うんですよね。

 「いつはりを除きてまことをのミいひのべんとちからを入て案じ侍るハいつハりいふにまさりたれど これも又まことを作りたる細工の句にて侍り」。ですから偽りを除いて、私はまことの句を作ろうと考えて力んではいけないということですよ。意識的にまことの句を作ろうと思って、力んではいけない。これもまた偽りの句とは言えないけれど、細工の句である。まことの句を作ろうと意識をしてはいけない、と言うことです。これが第三の指摘です。

 力を入れないで作るまことの句というのは、どうしてできるかと言うと、それは「人とわれと常いふ詞を句に作れば悉く俳諧なり」、この文章、よく鬼貫で引用されますね。鬼貫は口語調の人、口で喋る言葉がそのまま句になっている口語調の人といわれるんですけども、これはここを引用しているのです。人とわれと常にお喋りをしているその会話をそのまま句に作れば、それがそのまま俳諧になります。しかしながらそれにもまだ条件がありますよね。ただ単に喋っている言葉をポッと切り取って、それがそのまま句になるということではあまりに安易です。常に言う言葉というのは大事ですけれども、常に言う言葉が詩になるには、いったいどうしたらいいか。これが第四のポイントです。

 非常に難しいのですけども、「俳諧の修行といヘるハひたすら句にまことの味ひを稽古して 平生人に交るをも すぐにそのまことを用ひていつはりなき事をむねと心得たらんことをこそいふべけれ」。結局普段人に交わって会話するにもまことの心をもって、人に接しなさいということです。まことの心で生きよということです。普段の生活も、心を深く入れてまことの心で生きること。鬼貫にとってのまことの心というのは、詩を生みだす柔軟な心ということではないでしょうか。美しいものを美しいと感動できる、柔軟な詩情のある心。普段生活してる時から詩人としての柔軟な心をもって生活をせよということです。ですから、人生、生き方が俳諧の道に繋がると言っているのでしょう。自分がまことらしい生活をしている人は、その人が自然に会話をする句、その飾り気のない心のこもった言葉がそのまま良い句、まことのある句になるということを鬼貫が言っていると思います。

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