第七章 ミニ戦国大名 青木氏
〜伊丹に所領があった大名〜
麻田 茂

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資料9  
資料10  
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 二、大鹿、北村は戦国大名青木氏の所領
 外様の小さな戦国大名、青木氏の話をしてみたいと思います。青木さんのご先祖にはたいへん申しわけないと思いますが、『ミニ戦国大名青木氏』と表題をつけました。
 ミニ大名なんていささかご無礼だと思いましたが、今日のところは勘弁していただくとして、今では明治まで藩領であった大鹿や旧北村(現在の北伊丹・北園・高台・鋳物師など)の地元でもほとんど知られていない大名を紹介させていただきます。
 大名とはご存じのように、一万石以上の領地を支配することを幕府から与えられた武家のことです。

 江戸時代の徳川御三家や加賀前田家などのような、大藩の家臣で数万石の知行をとる人でも大名ではありません。
 したがって大名は、将軍直接の家臣で一万石以上の知行ちぎょうをあてがわれ、位の正四位とか従五位とかの「位」と「官」をもつもので、例えば水戸徳川家の場合は従三位・権中納言、この従三位が位で権中納言が官になります。薩摩の島津家は従四位上近衛中将です。徳川三家三卿や家門(徳川氏の親戚)、譜代とおよそ十万石以上の大名は従四位(上・下)の「位」をもち、その他五、六万石以下の大名などは原則として従五位(上・下)なのです。

 ちなみに将軍の位と官はと申しますと、正二位内大臣か従一位左大臣です。昔は従五位以上が貴族にランクされました。また従三位以上になりますと高級貴族で、おなじみの水戸光圀は黄門さんと親しまれていますが、「黄門こうもん」とは従三位の人が隠居すれば唐名の「黄門」を敬称として呼びます。ちなみに従五位上(下)何々守かみの大名の唐名は「朝散太夫ちょうさんたゆう」といい、また将軍(従一位か正二位)の唐名は大樹たいじゅといいます。一般に藩といいますが、いつ頃からこのように呼ばれていたのでしょうか。公式には将軍が大名全体をさして「万石以上の面々」といい、大名と同じ将軍家直の家臣で万石に満たないものは旗本と称し、テレビなどでよく活躍する、江戸町奉行大岡越前守などは越前守と名乗っていますが、大名ではなく数千石の旗本なのです。
 江戸時代以前の知行は、石表示ではなくて○○貫であって、それが豊臣秀吉の頃から知行を石高こくだかで表示するようになったようです。

 徳川氏が天下をとった頃の大名の数は、およそ一四〇家でした。徳川幕府もようやく安定した三代〜四代頃になると、皆さんもよくご存じの秀吉子飼い大名の福島正則などは些細なことで追放されたり、同じく加藤清正の子も跡継ぎがないので改易になっています。 このように秀吉系の大名だけではなく、なんだかんだと大名家の落ち度を見つけて改易しています。少し時代が下りますが忠臣蔵の播州浅野家などはよい例です。そのかわりに将軍家の身内の者を大名に取り立て明治維新の頃にはおよそ二八〇家の大名がいました。もともと大部分の大名は応仁の乱以来、約一〇〇年続いた、いわゆる戦国時代に裸一貫、一生懸命にそれこそ命がけで働いて運良く生き残り大名になった代表者は秀吉がそうです。もっとも秀吉の場合は大名ではなく、全国制覇をして天下をとった戦国時代の超大物です。

 また、鎌倉時代から続く守護大名の薩摩の島津家などは例外で、一般に戦国大名とは名もなき土豪や田舎侍が、命をかけて戦働いくさばたらきをして運よく戦場で死なずに万石の知行をとり、江戸時代を通じてずっと明治維新まで生き残った大名を、私はあえて戦国大名と呼んでいます。一〇〇万石大名の前田家などはその代表でしょうね。
 本題の、伊丹に知行地の一部をもっていた青木氏について、ご存じの方がいらっしゃいましたら、すみませんが手をあげていただきませんか。今日は一三〇人余りご出席と承っておりますが、ご存じの方はほんの二〜三人ですね。これくらいの知名度で安心しました。話のしがいがありそうです。


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