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三、夢多き若者の戦働戦働き
先程も触れましたが、戦国時代に気骨ある若者が戦場を駆け回り命がけで働いて、一応、万石取りの俗にいうところの大名・諸侯に数えられた青木氏について考えてみました。現在の豊中市螢池にその本拠を置いていた、事実上の初代麻田藩主となった青木一重という人物も、若い頃、忠助といっていたそうです。後に所左衛門といい、羽柴秀吉に仕えた頃には一重と名乗りました。
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秀吉が天下を統一し大坂城に本拠を置いた天正十一年(一五八三)に、秀吉より一万石余を与えられ、摂津国豊能郡麻田にその本拠を置き城を構えました。天正十六年に秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えたとき、一重は天皇に供奉し、その時に従五位下民部少輔に任官しました。一重三十八歳のとき待望の諸侯に列し、名実ともに大名の一員となりました。嬉しかったことでしょうね。
青木氏の本拠地であった麻田の地名は昭和二十年代後半までありましたが、現在は阪急電車宝塚線の螢池駅の知名度が高くなり、駅名の螢池がその地名になりました。
伊丹の年寄りの方で麻田村といえばご存じの方が多いのですが、大阪国際空港のすぐ東側が麻田村です。お年寄りの方で麻田村から伊丹に嫁いでこられたその方のお話を聞きますと、私は麻田の「お城」の中で育ちました、といわれています。
幕末明治維新まで麻田村に陣屋がありましたので、いま申し上げましたご年配のご婦人などは、陣屋ではなく「お城」とおっしゃっていました。明治生まれか大正初期の生まれの方々の多くは陣屋も「お城」なんですね。
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この間の大地震の時、ボランティアで古文書等の救済で伊丹の野間(旧野間村)の旧家を訪問しまして、古文書を拝見しますと、年季奉公の念書でしたが、お家の方の説明では、「昔うちの子守の人で麻田のお城からきたはりましたもん(人)のことですわ。」私は伊丹の人々の中には、大名の青木氏は知らなくとも、麻田の陣屋をお城と承知している人が多いのだなぁと思います。
これはある意味ではお城が正しいのでしょう。資料にありますように、青木一重が秀吉から一万石の所領をもらって麻田の地に本拠を置きましたが、資料の「青木一重年表」にありますように、この頃は身代の大小は別として、ある程度ひとかどの武将が居を構えた所は、当時としては「城」でいいのですね。
江戸時代になってから、城持大名と陣屋大名とに区別されるようになりました。例外的に少数ですが一万石でも城持大名がいました。また数万石でも陣屋の大名もいます。
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