第七章 ミニ戦国大名 青木氏
〜伊丹に所領があった大名〜
麻田 茂

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資料1  
資料2  
資料3  
資料4  
資料5  
資料6  
資料7  
資料8  
資料9  
資料10  
資料11  
資料12  
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 四、西国街道と能勢街道の交差地に城(陣屋)を築く
 麻田藩の陣屋は阪急石橋駅の一つ大阪寄り、螢池駅の西側にありました。このあたりは西国と京都をつなぐ西国街道と秀吉の本拠地、大坂の台所資金を産出する多田銀鉱地区とをつなぐ能勢街道が交差する要所です。
 あとで触れますが、この辺りは今も申しましたように豊臣家の資金を生み出す銀鉱が沢山ありました。昔の多田源氏の本拠があったところで、小身ですが青木一重は結構、秀吉に信頼されていたのでしょう。一重がこの地に本拠を置いた頃は、戦国武将荒木村重が織田信長と戦って間もない頃ですから、その戦乱のおかげで土地の人々は俗に、荒木焼けといいますが、伊丹を中心に摂津の国一円の目ぼしい建物などは焼き払われて、土地も荒廃していたそうです。


 さて、青木一重ですが、資料にありますように、泰平の時代とは違って、戦国時代は有力武将配下譜代の家来は別として、一国一城の主を夢見て戦場をわたり歩いた若者は、自分がこれと決めた主人について戦場で働き、気に入らなければ何時でもその主人に見切りつけて、別の気に入った主人を選ぶのことは決して不自然ではなかったのです。だから武士は二君に仕えずなどというようなことは後の時代のことなのです。

 戦国時代の主従関係は、割合に自由自在に主人を選んでいたようです。一重も郷里の美濃国安八郡青木村の地侍であった父親青木加賀右衛門のもとを、当時の気骨のある若者がそうであったように仲間の何人かと連れ立って何処かの戦場を求めて出奔しました。
 この時代、まだ兵農が完全に分かれていないから、百姓でも、戦いくさがあれば百姓も戦場に駆り出されたでしょうから、一重などのように血気盛んな地侍の若者は夢を求めて仲間と組んで、積極的に戦場に出かけていました。その時々に勢いのありそうで勝ちそうな大将についたのでしょう。このあたりは秀吉の若いときによく似ています。東海道筋には天下を制覇した信長、秀吉、家康らが輩出た土地柄ですし、戦国の下克上げこくじょうの見本みたいな、斎藤道三などもいましたから、一重も子供の頃からそれらの武将の活躍を耳にしていて、物心ついた頃から棒切れなど振り回して、村の悪童達と戦いくさ遊びをしていたのでしょう。

 一重の初陣は、信長に義元が討ち取られて落ち目になりかけていた、今川氏眞が武田信玄と戦ったとき、氏眞の陣を借りて戦ったのが初陣です。
 当時の「陣借じんがり」とは、正式にその大将の家臣にならずに、戦場のアルバイトみたいなものです。氏眞が戦い不利で遠州掛川に逃げたとき、一重は単騎で日坂峠に敵を迎えてよく防戦し、氏眞から賞金をもらっています。後に、氏眞は家康と度々戦います。一重も掛川城で負傷。今川氏は家康に追われてさしもの東海の名門も消滅しています。一重は傷の養生をしているときに、家康に誘われてその配下に入りました。
 家康は、一重のことは氏眞との合戦でその勇者ぶりをよく記憶していたのでしょう。家康も信長の勢力下で苦しい時機ですし、成長期でしたから有能な家臣は一人でも多く欲しかったのでしょう。このことが後に一重の運命にかかわってくることになります。

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