第七章 ミニ戦国大名 青木氏
〜伊丹に所領があった大名〜
麻田 茂

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資料1  
資料2  
資料3  
資料4  
資料5  
資料6  
資料7  
資料8  
資料9  
資料10  
資料11  
資料12  
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 五、姉川の合戦で勇戦信長に知られる
 元亀元年(一五七〇)、家康と信長の連合軍が浅井・朝倉連合軍と近江の姉川で戦ったときに、一重は家康の旗下として従軍、朝倉の雄将眞柄十郎左衛門直隆の子息同名十郎三郎直基を討ち取りました。
 このことは信長の記録『信長公記』に出ています。この記録は、信長の側近に仕えた太田牛一という侍が、江戸時代になってから書かれたものですが、これによると姉川の合戦で信長と家康の連合軍は、はじめ形勢不利でしたが家康軍が奮戦をして、勢い盛り返して浅井・朝倉軍を追い落とすのですが、このときに北陸の勇将眞柄親子を家康の手勢で討ち取ったことが、勝利に結びついたといわれています。このことが一重を一躍有名にしました。だがその後、一重の身内の者の不始末で家康の元を離れて浪人します。

 その後、一重は信長の武将で近江佐和山城主だった、丹羽長秀に仕えて各地に転戦、長篠の合戦のとき寒狭川で奮戦して水中で兜首をあげて、勇名を信長に姉川の合戦のときに次いで知られます。その後、秀吉が長浜城に入った頃にその配下となり、この頃の有力武将は有能な侍はいくらでも欲しかったのでしょう。とくに秀吉はそうですね。スカウトされる方も自分を認めて働く場を与えてくれる。有能で出世しそうな武将を求めて、何時でも主人を乗り換えています。

 一重も、丹羽長秀から秀吉に乗り換えたのが結果的によかったようです。丹羽氏も信長の配下では筆頭の柴田氏に次ぐ武将で、信長の双璧でした。秀吉などは丹羽の羽と柴田の柴をとって、羽柴秀吉と名乗ったくらいですから。
 秀吉がどんどん出世してゆき、長浜時代に秀吉の家臣になった連中が、特別譜代の家来をもたなかった秀吉の家臣のなかで、後に近江衆と云われた家臣団を形成してゆきます
 秀吉が天下人になりますと、一重も一万石余を与えられて諸侯の列に加えられますが、秀吉とは比較できませんが一介の田舎出の若者が、とにもかくにも大名になったのですからたいしたものです。

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