八、伊丹の新領主近衛家の旧領に青木氏が寺を建立
伊丹にたいへん関係の深い近衛家とかかわりがありました。近衛家が伊丹の領主になります以前は、宇治にその所領がありました。江戸幕府は宇治の黄檗に黄檗宗万福寺を建立することになり、伊丹の地を近衛家に与え、青木氏に寺建立の奉行を命じました。近衛さんは「お茶」から「お酒」に替えられたのですね。
幕命で近衛家の旧領宇治に黄檗山万福寺を建立する奉行を務めた青木氏が、奥川辺の村々を公収されて、奇しくも伊丹郷町の近衛領に隣接する大鹿・北村を替え地として藩領を得たことなどは単なる偶然でしょうか、奇縁ですね。
二代藩主重兼は、大坂の陣まもないので藩の基礎固めに苦慮し、また豊臣系の大名として、幕府の機嫌を取るため、積極的に公儀(幕命)普請を引き受けています。このことは先程も申し上げましたように、外様の小大名が生き残るための苦心の作戦なのでしょう。
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また、重兼の代に普請をした寺社は、たいへん多くこのことが後日、藩の財政を圧迫する要因となります。
重兼の代の寺社普請の主なものを上げてみますと、
菩提寺麻田村松隣院復興(豊中市)寛永六年(一六二九)
京都仁和寺造営奉行寛永十八年(一六四一)
宮の前住吉神社再建(池田市内)
寛永年間(一六二四〜四四)
日光東照宮修理奉行慶安元年(一六四八)
菩提寺仏日寺建立(池田市)承応二年(一六五四)
黄檗山万福寺建立奉行
明暦・万治年間(一六五五〜六一)
多田院再興奉行寛文三年(一六六三)
江戸菩提寺瑞聖寺建立寛文十年(一六七〇)
高平末吉菩提寺方廣寺(三田市)
建立延宝七年(一六七九)
などがあります。
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これら普請の費用は自藩のものは当然ですが、公儀普請も藩が負担していますから。僅か一万石程度の大名としてはたいへんな物入りです。このことは結局領民の負担となって跳ね返り、民百姓を大いに苦しめたことでしょう。
また重兼は、黄檗宗隠元禅師に早くから親交があり、木庵和尚にも師事して寛文六年(一六六六)六十歳の時、仏門に入り端山居士と号して、方廣寺の二代目住職(初代木庵和尚)になっています。またその頃、伊丹の中野にある常休寺などとも、木庵和尚を通じて親交がありました。
いずれにしましても、京都や大阪に近い畿内で僅か一万石の豊臣家の外様大名が、戦国末期から明治の廃藩まで二六〇年間、国替えもなく取り潰しにもならずに存続したのはたいへん珍しい藩なのです。
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(伊丹市立博物館友の会会長)
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参考資料・文献
豊中市史・池田市史・伊丹市史・三田市史
東京都港区史・大垣市史青墓編・美濃諸旧記・美濃国雑事記
滋賀県東浅井郡志(第四巻)・日本戦史
地域研究「いたみ」(第十二号) 伊丹市立博物館
「麻田藩領川辺郡村々の諸史料」若林 泰
読史備要 東京大学編
寛政重修諸家譜(巻第六六二)
藩史大事典(第五巻) 雄山閣
日本城郭体系(第十二巻) 新人物往来社
信長公記 桑山忠親校注 新人物往来社
黄檗宗摩耶山仏日寺関係資料(二) 服部潤承
方広寺開基端山公紀年録
大坂冬の陣夏の陣 岡本良一
諸将旌旗図 大阪城天守閣蔵
編年江戸武鑑(文化・文政)
文政武鑑・天保武鑑・文久武鑑 中村政昭氏蔵
青木宝書 中村政昭氏蔵
安政七庚申九月改之 御家中格禄附控帳「藤井氏」山田悦郎氏蔵
文久三癸亥年二月改 御家臣格附「多治一享」青木一長氏蔵
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