第八章 近世の伊丹の姿
〜発掘でみる有岡城〜
川口 宏海

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    2 有岡城の位置づけ
 では有岡城はどうなのかということになりますが、ちょうど有岡城はその次の第二段階(b)に位置します(図(9))。有岡城ができましたのは、天正二年(一五七四)です。この第何段階というのは、私どもと発掘をしておりました、いま富山大学に行かれた前川さんが考えられた、織豊系城下町の発展段階です。図(9)に模式図を挙げておりますけれども、その第二段階(b)にあたるんではないかとおっしゃっているんです。図(10)では第二段階(b)というのは、天正十三年(一五八五)以降で有岡城が無くなってからのことになるんですが、有岡城の構造からいうと非常に先進的な構造であった。


 天正二年の段階でできていたかどうかはわかりませんけれども、天正十三年以前に有岡城は第二段階(b)の形態を持っていた。それは一体どういう構造かといいますと、お城がありましてその周りに家臣団の屋敷地があります。先程申しました大溝筋から東側がそうです。この家臣団の屋敷地と、それ以外の商工業者が住む城下町、これがはっきりと区別されている。その第九図の模式図でいきますと、下から二番目ですが、有岡城では大溝筋で家臣団の屋敷地と城下町、商工業者が住むスペースとがはっきりと区別されている。一乗谷では両者が一緒に住んでいたという話をしましたが、これが大きな差です。そしてもう一つは、その城下町とお城全体を惣構えというものが取り囲んでいる。これがもう一つの特徴です。

 同時に、要所々々にお寺が配置されている。これが、後のいわゆる寺町に発展していきます。そのようにして、最終的に近世城下町が完成するのが一六〇〇年前後です。図(10)では姫路城下町を代表にしておりますが、皆さんよくご存知の江戸時代の城下町、これができ上がってくるんです。それの一つ前の、非常にそれに近い段階の城下町の構造を持っているのが有岡城というものである、ということなんです。ですから、非常に当時としては、先進的な構造を持った城であったということがわかると思います。私などは、むしろ村重の有岡城を見ながら信長が安土城を造ったのではないかと、いうふうに思うくらい非常にいろんな先進的なことを行っております。

(大手前大学教授)

主な参考・引用文献
岩崎 誠、他『勝龍寺城発掘調査報告書』
(財)長岡京市埋蔵文化財センター 一九九一年
笠井敏光「高屋城と古市」『ヒストリア』第一一三号 大阪歴史学会 一九八七年
鈴木 充、他『伊丹城跡発掘調査報告書』T〜W
伊丹市教育委員会 一九七六〜一九七九年
高橋康夫、他『図集日本都市史』東京大学出版会 一九九三年
田上雅則、他『池田城跡・主郭の調査』
池田市教育委員会 一九九四年
藤井直正・川口宏海・前川 要、他『有岡城跡・伊丹郷町』T〜X 
大手前女子学園・伊丹市教育委員会 一九八七〜一九九七年
藤井直正・川口宏海、他『城・町・くらし』
大手前女子大学史学研究所 一九九六年
前川 要、他『都市考古学の研究』柏書房 一九九一年
村田修三、他『週間朝日百科日本の歴史二十一 城 山城から平城へ』
朝日新聞社 一九八六年
村田修三、他『図説中世城郭辞典』第三巻
新人物往来社 一九八七年
八木哲浩、他『伊丹古絵図集成』伊丹市役所
一九八二年

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