第八章 近世の伊丹の姿
〜発掘でみる有岡城〜
川口 宏海

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 それから楯の代わりに「竹矢来」というふうなものを作ったりしますが、これで結構、鉄砲玉なんかを弾き飛ばしたという話がありますので、そういう利用のために竹を植えていたようです。この中は一部しか残っておりませんけれども、以前に発掘をされまして、立派な礎石建ちの建物や、瓦がたくさん見つかっており、瓦葺きの建物があったようであります。それから、靴脱ぎ石もその建物に付随しておりまして、かなり立派な建物であったと思います。それから、ちょっと耳慣れない言葉ですが「せん」、タイルといった方がいいですね。瓦の平たいものです。「せん」を何枚も連ねて土台にした蔵状のものの建物も、この四角の中から見つかっております。

 たぶん土止めだろうと思うんですが。土塁は今まだ残っておりますので、皆さんご覧になったかと思いますが、非常に立派な土塁ですね。北西の隅は一番高くなっておりまして、ひょっとしたらあそこに櫓やぐらがあったんではないかというふうに言われております。それから、石垣が残っておりますね。ちょうどコーナーのところを補強するように、石垣が残っております。あれも実は、石垣のあるお城といいますのは、後でも申しますけれども、この時代としては非常に珍しいなかなか立派なものです。同じ時代で石垣をあのように部分的に使っているのは、後でお話をします京都の勝龍寺城というお城があります。それから、焼け土の層が幾つか出ておりまして、伊丹の城というのはあまり落城しなかったという話なんですが、一、二回落城しております。その時に焼けたのだろうと考えられます。

 この本丸を取り巻いております堀は、絵図では四角に書いていますけれども、その図(2)を見ていただきますと、黒くスクリーントーンを貼っております内堀と書いたところがあります。これが実際の主郭を取り巻く堀です。右側が崖になっておりますので、堀が途中でなくなってしまいます。左側だけ、すなわち地面が平坦な西側だけを、堀で区切っております。このような主郭に並行して設けられる堀を横堀といいます。この堀は鉤形に角をもってまわっています。これは、わざと曲げて、いわゆる折れを造っているのです。堀の断面形は逆台形をしており、これを箱堀といいます。この幅がざっと十数メートル、そして深さが六、七メートルもあります。非常に大規模な堀です。とてもこんなところには攻め込めないなあと思うような、非常に大きな堀です。さらに折れを造っているというのは、一体どういうことなのか。これは「横矢掛け」、というふうにいうんですが、堀に取りついてくる敵兵を突出している方のコーナーの横から、弓矢で攻撃をする。あるいは、鉄砲で撃つというようなことをします。これは、ちょうど十六世紀中頃くらいから、非常に盛んになります。こういうのを折れをもった横堀といいますが、十六世紀の中頃すなわち戦国時代後期頃から非常に発達をいたします。これによって主郭が守られております。

    (2) 「侍町」のようす
 そこから西側、図(2)でいいますと左手の方ですけれども、縦方向あるいは横方向に小さな堀(SF)がたくさんあるかと思います。これも幾つか種類があるんですが、比較的大きなものが大体幅三メートルぐらい、深さが二メートルぐらいです。今の道路に沿って造られているというのがよくわかるかと思います。これが有岡城の時代すなわち、荒木村重がここに入った時に造った堀であろうと考えられるものです。時代はそこから出てくるものによって判定しますけれども、ちょうど村重の時代のものがたくさん出ております。これで一つわかりますのは、主郭の西側というのは、堀に取り囲まれた四角い区画が幾つもあるということなんです。その堀は、今の道のすぐ傍に沿って設けられています。ということは、今の町の道路、町割りといいますけれども、これが村重の時代にでき上がったんだということも同時にわかります。特に南北方向の堀というのは、村重時代の厳重な西からの攻撃に備える堀であったようで、この周辺ではまだ幾つかこの図に書き込めてないものが見つかっております。


 この堀とはちょっと違う方向で、やはり同じような堀が何本か斜めに走っていますが、これは有岡城の時代よりも少し古い時代、伊丹城の時代の堀です。斜線のスクリーン・トーンをかけてある堀です。荒木村重の時代の堀や溝に潰されている状態で検出しておりますので、これがおそらく伊丹城の時代ではないかと思います。これは荒木村重の時代とは、方向がまず違うというのと、それほどたくさん堀がないんですね。後は全部村重の時代の堀です。伊丹城の時代は、多少堀で囲まれた区画というのはあったようですけれど、非常に細かいたくさんの堀ができるのは、有岡城の時代だということがわかります。この区画の中は、堀以外にあまり遺構がよく残っておりません。われわれは建物跡だとかいろんなものが出てくるだろうと期待していたのですが、残念ながら江戸時代の遺構に潰されていまして、実際出てきましたのは、深く残っていたゴミ穴であるとか、井戸(SE)であるとか、そういったものだけが見つかりました。おもしろいことに、その区画一つ一つに一つか二つの井戸があるんです。それで、一つの区画がいわゆる一つの屋敷地だったんだろうと考えております。それをそれぞれ堀が取り巻いている。これは非常に大きな区画ですので、かなり上級の家臣の屋敷地であると考えられます。


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