(3) 「侍町」の出土遺物
それを証明するのは、この堀の中から出てきた遺物です。かなり高級なお茶碗、お皿が出土しております。出てきたものの話を先にいたしますと、その次写真(1)を見ていただきましょう。これは、堀の中から出てきた出土品です。これは、輸入陶磁器と書いてありますけれども、左の端は青白磁の梅メイ瓶ピンです。日本ではお酒を入れた壺であります。しかも高級な中国から輸入して使っている壺です。これは十四世紀頃の非常に古い時期のものです。非常に丁寧に使っています。今でもそうですが、皆さんの中にも骨董の趣味をお持ちの方がいらっしゃると思います。当時の武士達というのは、そういうアンティークを一つの権威の象徴といいますか、そういった形で大事に持っていったようです。それから、真ん中にあります白い物は茶碗ですが、蕎そ麦ば茶碗と書いてありますが、これは朝鮮半島で焼かれた朝鮮王朝(李朝)のお碗です。朝鮮ではただのお茶碗なんですが、その当時日本では、のちに千利休が大成させたという茶の湯が非常に盛んでありまして、向こうではなんということのない茶碗を、日本ではいわゆる見立てといいますけれども、立派なお茶碗として使った。こういう朝鮮半島で焼かれた茶碗がたくさん出てまいりますのがやはり戦国期ぐらいからです。
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それから右端にありますのは黒褐釉四耳壺です。口の部分しか残っていないんですけれども、耳、すなわち把手が四つありまして、全部残っていればかなり大きなものです。これは中国で焼かれたものです。これも中国では、普通のものとして使っている筈なんですが、日本に来ていわゆる茶壺という形で使われたようであります。これも、かなり高級な物です。このような当時の武士でもお殿さんしか持てないような物が出ております。同じく写真(2)には、抹茶を飲んだ瀬戸美濃焼天目茶碗が、それから写真(3)の漆器の碗、皿。写真(5)の方にいきますと、左の上にあります茶色の茶碗、これも中国の青磁と呼ばれる焼き物です。本来は、青い上薬がかかっていないといけないんですが、ちょっと下級品の茶色になっております。
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それから、2は青磁の香炉です。これも中国製です。青磁の茶碗類といいますと、ちょっと焼き物にお詳しい方は、龍泉窯という焼き物の窯をご存知かと思いますが、どうもこれは龍泉窯のものではなくて、その周辺で真似て作った少し下級品のようです。それから、2の青磁の香炉も龍泉窯ではなくて、ひょっとすると景徳鎮と呼ばれる窯場のものの可能性があります。下の方には青い絵の描いたお茶碗、お皿がいっぱい並んでおりますが、これも非常に有名な景徳鎮の製品です。そこで焼かれた青い絵の製品は青い花と書きまして、「青花」と呼びます。中国語では、チンホーと発音します。日本では「染付け」と呼んでおります。そこでは、青磁も作っております。13・14は破片でわかりにくいんですが、大きな鉢になります。
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それから、15は今は仏さんなんかに使う足の付いた飯茶碗によく似たものです。ちょっと珍しいものとしては、3が赤や黄色や茶色などを用いた「五彩」、中国ではウーツァイというんですが、五彩という焼き物になります。今の皆さんのお茶碗やお皿とかいうのは、色のついているのが当たり前なんですが、この写真を見ていただいたらわかりますように、この当時は青磁の青緑色か、青花の青い絵か、この二つぐらいだったんです。そこに、五色の色をつけた焼き物が加わります。この五彩、日本では赤絵と呼んでおりますけれども、これがちょうど、中国の明代の十五世紀から十六世紀ぐらいに登場してきます。当時は非常に貴重品として取り扱われたものです。3はお茶碗の破片です。写真ではよくわかりませんが、実は鹿が描かれております。
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それから4は、今でいう「交趾焼」です。これも焼き物ご存知の方だったらわかるかと思うんですが、低火度で緑や黄色、茶色の、いわゆる三彩ですね。あれに近いような焼き物で、型で焼いたお皿です。5は朝鮮半島で焼かれた徳利の口の部分です。このように非常に国際色豊かな出土品がこの堀の中から出ております。他にもタイの四耳壺なども出ております。国産品としましては、備前焼の建水になりそうなもの、あるいは水差しになりそうなもの、それから茶臼なんかも出ておりまして、いわゆる茶の湯をしているということがこれでよくわかります。
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今と違いまして、当時はお茶をたしなむといいますと上級の人々、武士だとか、有力な商人達の、いわゆる文化的なたしなみとして茶の湯が行われておりました。そういったものが堀の中からたくさん出てまいりまして、村重か村重の直属の上級家臣の屋敷がこの辺りにあったんだろうということがよくわかります。この堀の中からは焼け土の層も出ております。『信長公記』の中に記載された村重のお城が焼けた時のすなわち落城の時の焼土層だと思われるものです。この周辺の発掘でわかりましたのはそういうことです。それともう一つ、図(2)の下の方、一〇〇メートルと書いてある辺りに、十五世紀ぐらいからの、伊丹城の時代からの建物跡の溝が検出されています。地名でもこの辺りに「大手」という名前が残っておりまして、おそらくこの辺りに本丸に入っていく道があったんだろうと想像できます。
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