第八章 近世の伊丹の姿
〜発掘でみる有岡城〜
川口 宏海

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資料9  
資料10  
資料11  
資料12  
資料13  
資料14  
資料15  
資料16  
資料17  
資料18  
資料19  
資料20  
資料21  
資料22  
資料23  
資料24  
資料25  
資料26  
資料27  
資料28  
資料29  
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   三、調査スライド解説
    1 本丸とその周辺
     (1) 写真(11・12)内堀
 さて、本題の発掘された遺構のスライドに入りたいと思います。写真(11)は、先程申しました内堀ですけれども、幅が一五、六メートルの非常に幅の広い堀です。手前から奥までが堀の横幅なんです。余りに大きいがために、堀を横断するような形で試堀を入れました。中央が堀の底なんですが、これはまだ底に達していません。ヘドロなどが溜まった状態です。堀の西側の壁が写真(11)の上手です。非常に急峻な角度を持った堀です。それと素掘りで石垣を用いない堀です。皆さんのお城のイメージといいますのは、大坂城などの立派な石垣積みのお城を思い起こす方が多いと思うのですが、この有岡城は、それ以前でして、逆に石垣を用いないことがこの時代の特徴です。土塁も土を掻き揚げただけの非常に素朴なものです。内堀が折れているというお話をしましたが、写真(12)がちょうど折れた部分です。ざっと一〇メートルぐらいの折れがあります。場所は今のアリオの辺りです。今は公園になっていまして、ここのところはちょうど一段下げて堀をあらわしています。

     (2) 写真(13)攻城用?堀―第四〇次調査区
 先程、城を攻めるときの堀ではないかというお話をしたのが写真(13)の堀です。この堀は非常に変な堀でして、もともとは幅が三メートルぐらいの堀です。それを一旦埋めまして、幅を二メートルぐらいに縮小しています。なおかつ、この堀の横壁に穴の跡があるんですね。最初はこれ、何だろうなあと思いました。堀の中にこのような穴が、おそらく材木を立てたんでしょうが、そんなものが出てくることは先ず無いんです。変なものがあるなあと思ってずっと掘っていったんですが、下まで両側対応するようにありました。後でいろいろと想像を巡らしましたがまだ結論は出ていません。一つ考えられることは、こういうふうに柱を立てて、そしてもしその上に板を張ったとしたら、どうでしょうか。さらにその上に土でもかぶせましょう。そうすると、トンネル状になるんですね。ということは、ちょうどこの内堀につながるここの部分だけトンネル状のものを造っているとしたら、もしこれが城攻めのものだったら、上から狙われても大丈夫ですね。上にトンネル状の屋根があって、そのまま狙われずに内堀に入ることができるだろうと考えられます。そういう装置かもしれない。結論は出ませんけれど、今は、そのように考えています。こんな杭の跡があるのはここだけです。非常に珍しい例です。他でも同じような物が出てくれば、確実に言えるんですけれども。

     (3) 写真(14・15)「侍町」の堀
―第二三次調査区
 写真(14)はJR駅前の調査区の中でも、一番たくさん堀が見つかった二三次調査区です。上の方は、今も残っています主郭の一部です。中央に見えますのは伊丹城の時期の堀(SF〇三)です。断面形が台形状になるのを箱堀といいますが、こういう形というのは、十六世紀の中頃ぐらいから登場します。伊丹城でも非常に新しい時期、最後の方ではないかと思います。この堀を埋めて有岡城の時代の溝、あるいは堀というものが設けられています。伊丹城の堀からは、あまり遺物が出土しませんでした。ところが、有岡城の時代の堀からは、先程申しましたような中国陶磁器などが、たくさん出土しまして同時に焼土層が出ております。写真(15)は、堀を掘っている状態です。約二メートル五〇センチ程の深さがありまして、かなり深いというのがわかっていただけますでしょうか。これを掘るのに非常に時間がかかりました。

     (4) 写真(15)堀の埋土(SF〇一)
 写真(15)では堀の埋土の状態もわかります。堀の上方はこのような黄色い土で埋まっていました。こぶし大の石がたくさん入っておりまして、おそらくこれは堀のすぐ傍に土塁があってその土塁の土を利用して埋めたんだろうと考えております。だいたい堀というのは、堀を掘った土でその横に土塁を造るんです。堀と土塁というのは、セットになります。逆に埋めるときはその土塁の土で埋めます。つまり、これは堀が不要となって埋められた時の埋土です。下に黒い層がありまして、これが焼土層、その焼けた土は火事で生じるのですが、実際はその火事でできた時の焼けた木材であるとか、炭化物といったものが入り混じってできます。これは先程申しましたように、天正七年(一五七九)の有岡城落城時に生じたものと考えられます。さらには、その上に瓦がたくさん埋まっておりまして、この付近に瓦葺きの建物があったということがわかります。それが取り壊されて捨てられたのでしょう。一番下は青い色になっておりますが、これが堀がもともと堀としてあった時の水が溜まった状態の部分です。ですから、これが一番最初の堀の堆積層で、そこから上は空間だったんです。すなわちこの堀は、空堀といわれるあまり水が溜まっていない堀であったということがわかります。


     (5) 写真(16・17)「侍町」の堀・侍屋敷
―第三五次調査区
 写真(16)は、第三五次調査区の堀です。部分的にこのように曲げてあります。先程もいいましたように、わざと曲げてあります。この堀は幅三メートルぐらいです。この左側(西側)には、現在も道路が通っております。この道路があって、堀があって、おそらく堀の右側(東側)に、土塁があったであろうと考えられます。明らかに攻められやすい西からの攻撃を意識しているということがわかります。それから、この中程には有岡城の時代と、少しそれよりも古い時代の溝がありまして、南側の区画と北側の区画を分けております。ちょうどその区画を分ける場所のコーナーが折れを造っているコーナーにあたりまして、非常に計画的に造っているということがわかります。写真(17)は、また別の第二七次調査区の全体の写真です。先程見ていただいた堀の続きが上方にあります。その向こうに道路があるのが、わかるかと思います。これが、一つの区画です。この区画の中に、先程井戸があるというお話をしましたが、中央にあるのがその井戸です。これ以外に建物などがあると、中のようすがよくわかったんですが、残念ながら井戸などの深いものしか残らなかった。それからこの調査区では、他に有岡城の時代のものとしまして、後で紹介します壺が丸々埋まっておりました。


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