第八章 近世の伊丹の姿
〜発掘でみる有岡城〜
川口 宏海

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資料22  
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資料24  
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資料28  
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    (10) 写真(22)瓦―第二三次調査区SF〇一出土
 写真(22)は同じ堀から出土した瓦です。この時代で瓦を葺ふいているといいますと、都のお役所かお寺か、後は有力な武士の館ぐらいしか無いんです。それも有力な武士といっても、ほんとうに上級の武士しか使えませんでした。それが、次第に一般化してくる。現在、皆さんのお家には全部瓦が葺かれてますけれども、われわれ庶民の家まで瓦が葺けるようになったのは江戸時代になってからなんです。ですから、瓦が出てくると普通われわれは、お寺か上級の人々の居住地か、お役所か、というふうに考えます。お城に瓦を使った一番早い例は奈良の多聞城という、松永久秀という戦国大名が造った城です。そして少し時期が下がりますけれども、信長の築いた安土城、そしてこの有岡城です。有岡城の場合は瓦の模様が結構違うんです。それとそんなにたくさん出ておりません。同じように瓦を使うといっても端の方だけに飾りとして使うという、使用法ではなかったかと思います。それと、模様もいろいろありまして、もともと建物を建てるために瓦を焼いたのではなくて、どうもどこからか取り集めてきた、という感じがするんです。城専用に初めて瓦を焼いたのは、安土城です。安土城はご存知の通り金箔瓦です。「唐人一観」という人に焼かせたんだという記録がありますが、本当に中国人が指導したのかどうか、まだ議論があるんです。奈良の瓦屋さんが中心となってつくらせたんだという話です。他の戦国時代のお城では、瓦が出るのは珍しい方ですが、この近辺では池田城でも多少出ております。珍しいということは、それだけ財力があったということでしょう。取り集めてきたということですから、それ程お金がかかったかどうかあまりわかりませんけれども、瓦葺きの建物を造るというだけでも力があったようです。


     (11) 写真(23)石仏
―第二三次調査区SF〇二出土
 写真(23)は、石仏ですね。石の仏さんというのは信仰の対象なんですが、この時代の戦国大名はこれを溝の材料に使ったり、それから建物の礎石に使ったり、非常に罰当たりなことをしております。有名なのは、織田信長が京都の通称二条城を造った時に、石垣などに石仏をたくさん使ったことが挙げられます。京都の人達が「なんて罰当たりなことをするんだ」と言った、という話が残っております。同じようなことがここでも行われている。他に、秀吉が造った豊臣氏の大坂城でも、少しこういうものが入っています。どうやらその当時石垣を造ったり、それから石組みの溝を造ったり、まだ切石を造ったりするという、石の材料を調達する技術を持った石屋さんがそれ程いなかったようです。石で造りますと、非常に頑丈になりますからみんなしたいんですが、石の材料が足りない。そうすると近くのお寺から、こういうものを拝借してくるということになるようです。その当時の戦国大名は、信長などは比叡山を焼き討ちしたぐらいですから、神仏をそれほど構わずやっていると考えられます。その後、豊臣氏の大坂城、それから徳川氏の大坂城を造るときには、ちゃんと石切場から石を切り出して、そして運んでくるという形になります。その後、皆さんのお家の石垣なども石切場から切り出してくるという形になりますが、この当時はまだそういう石屋さんがたくさんいなかったということのようです。

   四、城下町の発達史と有岡城の位置付け
    一 城下町の発達史
     (1) 武士の居館の成立
 これから続きのお話は、有岡城というものが他の城と比較してどうなのか、というお話も付け加えておきたいと思います。元をたどりますと、城下町というのは武士の館から出発するといういい方ができます。武士というもの自体、平安時代ぐらいから出現してまいります。彼らはもともと地方で勢力を蓄えて、それから政権をとっていくわけですが、地方では地方を治める軍事的なお役人の立場を利用しながら、勢力を蓄えていくわけです。


 彼らが住んだ館というのがちょうど四角い形のものでして、専門家の間では典型的なものを方形館と呼んでおります。こういうものの原形が、ちょうど武士達があらわれてくる平安時代ぐらいから出てまいります。鎌倉時代を通じて、武士の館というと主に四角い形をしておりまして、溝や堀を巡らしています。内側は塀を設けたり、あるいは土塁を設けたりします。真ん中に館といわれる母屋、主屋ともいいますけれど、これがあります。メインの建物です。この周辺に付属の建物が幾つかあります。例えば厩であったり、持仏堂であったりそういったものが付属し、それ以外に家来の住む雑舎などがあります。その規模はいろいろあるんですが、一辺が約五〇メートルから大きいものになりますと約一〇〇メートル、一五〇メートルのものもあります。約一〇〇メートルといいますとほぼ一町ということになりますが、そういう規模の館が各所にできます。

 この周辺には直営田という田んぼがつくられます。武士の館が営まれる所というのは、一番お米がよくとれる所、上等な田んぼがつくれる所で、これを武士達は権力に任せて取ります。この周りに自分の所有の田んぼをつくります。これを直営田といいますが、これを家来に耕させながら暮らしをしている。いざ鎌倉という時には、家来とそれから親戚、一族郎党といいますけれど、親戚中の人々をつれて鎧兜に身を固めて馬に乗って駆けつける、というのが平安時代の終わりぐらいから、鎌倉時代にかけての武士です。この当時というのは、非常にのんびりしております。面白いことに、ヨーロッパでも同じようなことらしくて、ヨーロッパのいわゆる騎士というのも、そのようなことをしていたようです。

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