近世以前の道
人々がある地点からある地点へ行き来するために通行するのが道であり、人間が生活してゆくためにはかならず道が必要です。まず、生きるための狩猟や漁撈あるいは祭祀のための道であり、また、必要な物資が手近にない場合は、それを求めて遠くまで行くこともあります。
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たとえば、大坂茨木市で発掘された弥生時代の銅鐸の鋳型は、兵庫県三田の西あたり、明石川上流(神戸層群)から出る凝灰質砂岩を利用しており、またこの鋳型でつくられた銅鐸が、香川県や兵庫県の豊岡、大阪府の豊中で発見されています。同じくヤジリも、大坂の南二上山のサヌカイトや、滋賀県高島町の高島石でつくったものが、茨木市で発掘されています。
また、古墳時代の遺跡、茨木市の紫金山古墳や将軍山古墳に、紀ノ川流域の緑泥片岩が利用されています。
これらが、どのような人々によって、どのようなルートで運ばれたかは明らかにされていませんが、必要な物資を遠隔地に求めるとき、その往復ではさまざまなものが交換されたでしょう。
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人々が狩猟によって糧を得ていた生活様式から、稲作の時代になると、多くの人が土地に定着することになり、生きるための生活必需物資を調達するのは、土地に依存しない商人や職人といった、特定の人たちにゆだねられるようになります。
人々が土地に定着し、民衆自身が生きるために必要とする旅が少なくなりつつあったとき、新しい性格の旅が民衆に強制されます。それは国家の成立によるものでした。
大和朝廷による古代国家が成立し、やがて七世紀なかば律令制度が完成すると、人々は生きるための旅だけではなく、国家にたいして、租税の貢納や夫役のための、遠く都までの困難な旅や、さらに当時新羅の侵入に備え、筑紫地方におもむく防人さきもりの旅が余技なくされました。官人の任地への赴任や移動も頻繁になり、都を中心に道が整備され、駅制が敷かれました。
道は無数にあったわけですが、このうち国家が駅を置き、駅馬を使役して移動できる駅路は、都から放射線条に延び、地方の国府をつないで行く、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道の七道です。
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駅が置かれ、馬が用意され、それを維持するための人員や田が与えられ、そこには旅人の休泊施設のようなものもあったと思われますが、これを利用できるのは官人等限られた人たちで、原則として庶民には何の便宜も計られませんでした。
駅制のもっとも充実していた奈良時代、京都・太宰府間をもっとも早い便は、四日あるいは五日で走破したようですが、平安時代になると衰退します。律令制度の崩壊とともに、駅制も崩壊しました。鎌倉幕府が成立してふたたび駅制が復活しましたが、かつてのそれにおよぶものではなく、それも室町時代には衰退します。
室町期は、幕府や荘園領主が各々の領内の街道に関所を設け、通行税をとってその管理費にあて、また寺社では通行税を造営費の捻出にあてるため、諸所に関所が乱立し通行人を悩ませることになり、これらの関所が撤去されるのは、信長の時代を待なければなりませんでした。
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