第九章 近世の西国街道(山崎通)
〜古文書からの考察〜
石川 道子

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資料9  
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資料11  
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 七 おわりに
 −西国街道宿駅の終焉−
 慶応三年十月に大政奉還、続いて王政復古の大号令によって朝廷を中心とした新政府が樹立され、翌年には元号も明治と改まりました。
 宿駅制度は新政府の樹立後も引き継がれ、各駅の伝馬所ではこれまで同様に公用継ぎ立てが行われましたが、官員の通行や物資の輸送量は急激に多くなりました。すでに戊辰戦争時において、宿駅の継ぎ立て能力が限界に達していることを痛感していた政府は、早急に新しい駅制度に着手しました。(表9)


 明治四年(一八七一)には民間の継ぎ立てを併用することとし、各伝馬所に相対継立所(陸運会社)が設立されましたが、幕末、通行量の激増をみた西国街道は、動乱期が過ぎ、新しい時代を迎えると、交通量は急速に少なくなったようです。ふたたび西国街道の通行人たちを郡山本陣の記録でみますと、前章2節でみた文久三年の休泊状況とは大きく異なり、明治二年の休泊数は半減しています。もちろん参勤交代もなくなっていますので、宿場にかつての騒がしさはなかったでしょう。
 明治四年十月、昆陽駅はじめ瀬川駅・郡山駅では、兵庫県からの陸運会社設立の要請にたいして、通行量の少ない当所に伝馬所と陸運会社を併設すると、費用ばかりが多くなり、その維持が困難であるため、この件は受け入れがたいという旨の返答をしています。
 このようななかでも、継ぎ立ては行なわれたのですが、やがて明治五年八月を限りに、全国の伝馬所は廃止され、運輸は営利事業として民間にゆだねられることになりました。
 このような駅制度の変遷のなかで、西国街道沿いの旧宿駅も、永年行なってきた公用継ぎ立ての任務を終えました。

(伊丹市酒造家史料調査員)

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