第九章 近世の西国街道(山崎通)
〜古文書からの考察〜
石川 道子

Page1  
Page2  
Page3  
Page4  
Page5  
Page6  
Page7  
Page8  
Page9  
Page10  
   
資料1  
資料2  
資料3  
資料4  
資料5  
資料6  
資料7  
資料8  
資料9  
資料10  
資料11  
目次へ  
 
 2 征長軍と討幕軍
 昆陽にとって長州軍の置荷物一件は大事件でしたが、このころの西国街道は、これまでになかった慌ただしさをみせています。京都警護のための藩兵の上下も多く、そのようななかで、文久二年(一八六二)の暮れあたりから、江戸在府を解かれた大名の家族の華やかな行列も西へ向かう、といったありさまで、宿駅は混雑をきわめます。
 元治元年(一八六四)、蛤御門の変によって大敗した長州藩の追討のため、尾張前藩主徳川慶勝を総督とする征長軍が、同年十月ごろから陸路海路を西下しましたが、長州藩は恭順の意を示し、征長軍は戦うことなく撤兵することとなりました。撤兵にあたり一団がこの街道を通行しています。


 元治二年正月十四日から、尾州御旗を先頭としたおよそ六千の一団が郡山駅に宿泊しています。征長総督徳川慶勝も同街道を通行する予定だったのですが、急遽変更して大坂廻りになったとあります。もちろん郡山宿だけで対応できる人数ではなく、周辺の村々にも分宿しています。
 このとき通行路にあたった街道宿駅には臨時に助郷が認められ、昆陽駅でも、摂州川辺郡一五カ村、同有馬郡五カ村、西成郡五カ村、河州志紀郡五カ村、同石川郡三六カ村、計六六カ村が加助郷に指定され、継立業務に加わることになりました。

 幕府はさらに慶応元年(一八六五、四月改元)、ふたたび長州へ兵を派遣しますが、長州軍の圧勝におわり、やがて尊攘運動は討幕へと転換し、同三年十一月には、長州・薩摩・広島の討幕藩兵の東上をみます。同月二十九日長州藩兵は打出浜(西宮市)に上陸し、西国街道を進み、十二月九日に昆陽駅を経て郡山駅に止宿しました。このとき郡山駅での賄いが一千百余人分、周辺村々におよそ三千人と記録されています。長州の奇兵隊や整武隊の一行も続いています。
 文久三年、郡山駅の休泊者と瀬川駅に残る当時の人馬遣い高の変化を表7表8に記しておきます。

 この年の郡山の休泊者は大名だけではなく、誰奥方・誰姉君・誰伯母君などといった、かつてなかった多数の女性の休泊客を迎えています。ものものしい武士や武具も通れば、いままで見ることもなかった艶やかな女たちも通り、まさに前代未聞の通行状況を呈したのではないでしょうか。
 また、表()にみるように、人馬の遣い高は、幕末、急激な増加を示しています。
 西国街道の人々は、これらの人たちを迎え、送りながら、なにを見、なにを感じていたのでしょうか。


【次のページへ】


FujiyamaNET は「山は富士、酒は白雪」でおなじみの
小西酒造株式会社が運営しております。

FujiyamaNETに関するご意見・お問合せ:fujiyama@konishi.co.jp
Copyright(c) 1996-2009 konishi Brewing co.,Ltd.