
伊丹「修武館」二百年の歴史をいまだに維持する話
小西酒造(株)会長 小西新右衞門夫人 故 小西静子 前薙刀連盟会長談
-1-ただいまわたくしどもの会社(小西酒造株式会社)の「社史」を編纂中と聞いておりますので、それが完成いたしましたらもっと詳しいお話ができるかと思いますけれど…。小西家がこの地(伊丹)で清酒業を本業にするようになりましたのは慶長17年(1612)頃だったとされておりますから、ずいぶん古いことになります。関ケ原の戦いが、あれは慶長5年(1600)でしたか。そうしますと徳川家康の時代ですね。小西家では代々当主が新右衛門を名のっておりますが、清酒業を本業としたのは新右衛門宗吾というひとで、このひとを始考(初代)としております。
次考(二代)が新右衛門宗宅。この宗宅が働き盛りの頃でしょう、江戸へ酒樽を運ぶ途中、雪をいただいた富士山を眺めてその気高さに感動した……それで小西家醸造のお酒に「白雪」と名づけることになったのだそうです。東海道のどのあたりからその風景に出会ったものでしょうか。きっと好いお天気だったのでしょう(笑)。
伊丹とその近隣11村を合わせて伊丹郷町、その伊丹郷町が近衛家領となったのが寛永元年(1661)です。近衛家領というのですから、幕府直轄の天領でなし、大名が支配する藩領でなし、お公家さまの領地ということになります。
伊丹郷町に「惣宿老制度」が設けられたのは元禄10年(1697)のことでした。この惣宿老は伊丹と近村11村、近衛領内の司法行政を司どったものだそうで、そうですね、民政機関ですね。この惣宿老は伊丹の酒造家にその役目が仰せつかることになっていて、四考(四代)霜巴もその一人として帯刀を許されました。それから以降、小西家は代々その職についています。
この頃、伊丹はずいぶん繁栄したようですね。丹醸の町として有名になったばかりでなく、文化の町としても発展して、ですから諸国の文化人たちがしきりにこの地を訪れたみたいですね。たとえば井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門…。霜巴がこういうひとたちと親交を結んでいたことがわかっています。
さて、小西家の当主がただ一人で伊丹郷町の惣宿老をつとめるようになったのは七考(七代)宗脩(むねなが)のときで、となれば政治や経済ばかりではなく、丹醸で栄える伊丹郷町の治安も守らなければならないという責任もいよいよ強く感じるようになったのでしょうね。天明6年(1786)というと徳川家治の時代ですが、領主である近衛家に請願して私設の道場をこしらえ、浪人やら剣術を習いたいひとたちのために開放して、修業をさせたといいます。そして、地域社会の秩序安定に尽す、と。これが修武館の始まりですね。いまから数えて約二百年前になります。伊丹郷町はお公家さまの領地で、武士の統治するところではない、伊丹郷町の自衛ということがあったのではないでしょうか。
それからずうっと来て明治維新です。明治2年(1869)になると、小西家では施設を一般公開するとともに、師範を招いてますます武道の発展に寄与したというんですね。それで思いだしました。あとでごらんになっていただきますが、わたくしどもの道場の正面に、神道無念流斎藤弥九郎の書が額に入れて飾ってあるんですよ。なぜ斎藤弥九郎の書があるのか。その経路がいまとなってはだれも知る者がいないのですが、なんでもあれだそうですね、斎藤弥九郎は維新のあと新政府に仕え、大阪におられたことがあるんだそうですね(註1)。もしかしたら、その頃、小西家の道場に見えたことがあったのかもしれません。でも、これは推理です。もっとよく調べてみないとほんとうのところはわかりません。
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